近田昭夫先生「よきひと法然上人」(4)
2009.04.10
2009年4月10日 春の法要
この「自分でなければやれない仕事」という言葉は、大阪の南御堂(みなみみどう)で来るようにといわれたときに、私が出した講題です。大阪というのは蓮如上人という方と非常にゆかりの深い所です。今、本願寺というと京都にありますけれど、蓮如さんの時代には十数年の間、比叡山の焼き討ちを何遍もくらうから、京都の本願寺には戻れなかった。そこで今の大阪城のところに本願寺を作られた。その本願寺の後を、太閤秀吉がそのまま、あの石垣を利用して作ったのが大阪城です。大阪は蓮如さんによって開かれた寺内(じない)町なんです。寺内町っていうのは、門前町と違い、寺が中心で町が出来た。それで、大阪というのは、いま「大阪」と書きますが、蓮如上人がこの土地を「大坂」(おおざか)と名づけようと。だから、「おおさか」という命名をしたのは蓮如さんです。ですから、大阪というところは今でも蓮如上人に非常にゆかりが深く、大阪で一番の銀座通りを「御堂筋(みどうすじ)」と呼んでいます。あれは北御堂・南御堂それから天満御堂の三つの御堂をつなぐところからきています。南(みなみ)御堂(みどう)というのは東本願寺難波別院、北御堂というのは、御堂筋の北側にある西本願寺津村別院。その御堂と御堂をつなぐから御堂筋って。そういうことが大阪の一番のメインストリートの名前になっているくらい、非常に蓮如上人とゆかりが深い。
その蓮如上人のキーワードは「後生の一大事」です。これは、白骨の御文に出てくる言葉でよく知られております。「人生で一番大事なこと」と。一大事、つまり、「人生で一番大事なこと」とは何かということです。そこに「後生」という言葉が付きます。「後生」、普通に考えたら、死後とか来世ということにあたる事柄です。前生・今生・後生というくらいで、後生といったら、どんなに会通(えつう)してみても、やはり死後とか来生ということに関わる言葉ですね。
それで、人生の一番大事なことをいう時に死後とか来生にあたる「後生」という言葉を、何故あえて使っているかということが問題なんです。ここが私は大事なところだと思います。「人生の一大事」と始めからいえば分かりやすい。それなのに、あえて死後とか来生という言葉にかかわるような「後生」という言葉をつけて蓮如がそういう表現をとったのは、「あなたこのこと一つが果たせなかったら」、まあ、私流の言葉で言わせていただくと、「自分でなければやれない仕事を果たし遂げなかったら、あんた死んでも死に切れないでしょう」、ということです。
その「自分でなければやれない仕事」というのは、先程申し上げた、親を選んで生まれた人はいない、という誰でもの問題です。ですから、私が私であるということに落ち着けない、自分が自分であるということに堂々と成りきれないでいるということは、私が半端人足だからではなく、誰もが持っている問題なんです。誰もが考えても努力しても、どうにもならない問題です。百年考えてもどうにもならない問題です。
その問題を解決しなければという、そういう課題を担って世に現れたのが仏です。ですから、仏法を聞くというのは何のためなのかというと、その仏が世にお出ましになった課題です。それは、仏さんが一人で勝手にそういう問題意識を持ったのではなく、我々が自分のことでありながらハッキリしていない、そういうことを本当に目覚まして、その問題に眼(まなこ)を開かせよう、と。そこに、誰でもの、「後生の一大事」ということは別の言葉でいえば、「出世本懐」とか「出世の本意」と。この「出世」というのは、この世に生を受けたということです。世に生れ出た、この私が縁があって二親のところに生を受けたと。私がこの世に生を受けたということの本当の意味を果たすことが出来るというのが、「出世の本意」とか「出世本懐」といわれていることです。「本懐」という言葉は、本来の目的を果たしたいということですね。ですから、「出世の本懐」とか「出世本懐」とか「出世の本意」というのは、私がこの世に生まれ出た本当の意味・目的、それは何か。具体的なことでいうと、先程申し上げたように、どんな人も親を選んで生れ出たことはない、という「自分の人生に丸ごと納得致しかねます」というところから人生がスタートしているという問題。これは誰でもの問題です。だからこそ、その私が私であるということに、本当に自信を持って落ち着ける。人と比べてましな私、ということではありません。
⑤へ続く