正信偈に学ぶ (5)
2008.10.29
2008年10月29・30日 報恩講
帰命無量寿如来 無量寿如来に帰命し、
南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる
というところを尋ねたいと思います。
帰命無量寿如来南無不可思議光
帰命ということについて、曇鸞大師が書かれた書物の中に、
「帰命すなわち礼拝なり」とあります。
礼拝というと、神社にいっても他宗の仏教でも言います。
手を合わせて頭を下げる。頭を下げてお参りをする。形に表れたものです。
「しかるに礼拝はこれただ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。」とも書かれています。
帰命は礼拝だけれども、礼拝は必ずしも帰命ではないと。
要は、帰命の意味・中身は必ず形に表れる。
ところが形に表れたものは必ずしも帰命にはならない。
例えば、私たちはありがとう、お世話になります、と頭を下げることはいくらでもありますが、
本当に心から敬意を表し、申し訳なくてということにはなっていません。
最近テレビでも頭を下げる場面が多く見られます。
形は頭が下がっておりますが、どうですかね。地位・立場、お金をもらうため、名誉を守るためならいくらでも頭を下げます。
姿かたちはいかようにもなります。それは必ずしも帰命ではありません。
しかし帰命という心が自分の中に起こったら、必ず形に表れるんです。
ここで、二つのことが問題になります。
では形はいらないのか? 大事なのはこれがわかっているかどうかです。
曇鸞が言いたいのは、私たちが念仏を称える形を仰りたいのだと思います。
その称える姿が、ただ称えればいいのではなく、意味をはっきり了解して念仏申しているか?
この帰命を親鸞聖人は、「南無というは帰命なり。」と仰ります。
帰命ということを厳密に、細かく言われた最後に「帰命は本願勅命の招喚」と
言われています。南無は本願招喚、ほとけ様が私たちを招き喚ぶのです。
それは仏様の呼び声を聞いたからだ、という親鸞聖人独特の理解があります。
先月父が亡くなりましたが、まだまだ実感がわきません。
しかし亡くなったということの重みは、日が経つにつれて自分の中に
感じられてくるという思いでおります。
重くなるということは、言葉をかけても返事がかえってこない。
皆様方のほうがよくお分かりかと思いますが、一年二年と経つにしたがって、
父や母があの時言っていた言葉の意味が、重いなど、別の意味で感じられると思います。
それが重なってきますと、自然と形に表れる。父に母に手が合わさり言葉が出てくる。
息子や娘はめったに「お父さん」とは呼びません。
呼ばれたときは下心があるときだけですが。それでも娘に声をかけられるとうれしい。
財布の紐もついゆるむ。そうすると妻から怒られますが…。でも呼んで欲しいんです。
ですから南無阿弥陀仏の南無は帰命ということです。親鸞聖人が本願招喚の勅命だ。
ほとけ様が私たちを喚んで下さる。おかしな方向へいってしまう私たちを喚んで下さる。
それが帰命・南無ということだと、親鸞聖人は理解なさっておられる。
ほとけ様が喚んで下さるということは、どういう願いをかけてくださっているのか、
願いなんです、本願です。その言葉を喚声を聞くのです。
その喚び声を自分で言って聞くんです。ここ分かりにくいところですが、
電車の運転席の中に「確認敢呼」とありました。
運転中に自分で言って自分に呼び覚ましめるんです。
それが南無阿弥陀仏、ということなのではないかと。