正信偈に学ぶ (3)
2008.08.22
2008年8月22日 盂蘭盆会法要
正信偈の「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」。
その中でも、非常に大事なことは「法蔵菩薩」ということでございまして、法蔵ということのもともとの意味は、法の蔵(くら)でございます。いろいろな先生の本を拝見しますと、鉱脈ということが出てきます。この言葉が表すものは、外からは見えない、普段私たちはなかなか気が付かないけれどもその私たちの心の奥底にずっと眠っているが間違いなくあるもの。それを法蔵というものだと。それが大事な意味でございます。私たちが気が付かない・見えない、普段思いもしない、そいうものが心の奥底にちゃんと流れていて、それが私たちを突き破って、目覚めさせてくださるご縁となってくださる。
生きているということは、忙しいですから、自分がため息をついて大事に考えなければいけないと思っていても、妻が、子供が、仕事がと次々。それが終わったら一杯飲んで寝てしまう。心の中から湧き上がってくる問いは、大人になるほど忘れていくと思います。でも実はあるんです。それはいいますれば、色んなものがあっても、どうにも満たされない、そういうものがあるのではないでしょうか。
これが全てとは言いませんが、自分の居場所がないとか、自分がここに存在している意味が見出せない。喜びが見出せない。今のような時代になると、頑張れば次の時代が良くなるという保障がどんどんなくなっている。
そこに私の存在意義ということをふと思うということで、中学生の女の子の作文を紹介させていただきますが、高 史明先生が自分のお子さんを亡くされた。息子さんが自殺をなさった。そのことに関して、一生懸命取り組んでおられる先生だからだということで、沢山の手紙電話があるそうでございます。
15歳の女の子の手紙の中に、「今の大人の人たちは、最近の若いものは、贅沢だとか、仕事をしないというが、私たちはいいい加減に生活をしているわけではない。自分たちが本当の欲しいものは、地位でもなければお金でもなければ名誉でもない。何かが欲しい。その何かが分からない。分からないけれども、何かが足りない。それを大人の人に、いろんな人に聞いて回ったけれども誰も教えてくれない。だから私たちは死のうとするんだ」という手紙です。それが答えというわけではないが、そういうことではないかと思います。地位・名誉・お金ではない。
何かといわれてもその何かが。生きがい、存在意義といってもいいかもしれません。言葉で言えば生きがいなのかもしれませんし、その女の子の手紙では、「何か」としか書いてません。何かが足りないんですよね。周りの人に聞いても誰も教えてくれない。もっと勉強しなさいとか。がんばりなさいとか、まだ若いとか。中学生が何を考えているのか。中学生だから勉強しろ、高校いってから考えなさい、せめて大学ぐらい行きなさい、など。
そうやってずっとごまかしてきたが、その誤魔化しが感受性の強い子どもにとってはたまらないんです。だから、こんな世の中いても何の意味もないと言って、自殺をするんだ、という告白の手紙ですよね。あい通じるものがあると思います。