• Home
  • 浄土真宗 念仏の教え
  • 光澤寺について
  • 行事のご案内
  • アクセス・お問合せ

光澤寺について

甲府別院の沿革

1548(天文16)年 武田信玄が、当時相模国鎌倉常葉町にあった蛇伏山長延寺(現在の真宗大谷派永勝寺:横浜市戸塚区)の住職実了を、使僧として呼び寄せ、手厚い庇護のもと、長延寺を再興したことに始まる。
信玄は実了の人柄に共感し次男庄蔵の子である顕了を実了の下に養子縁組させ、境内地2万坪、寺領2千石を寄進している。
1582(天正10)年 天目山の戦いで、信長・家康の連合軍に攻めこまれ武田勝頼が敗れると、武田家と特別な関係にあった長延寺は信長によって焼かれてしまう。実了は焚死し、顕了は信州犬飼村(この地に現在の真宗大谷派善勝寺を建立:長野県飯田市)に迎えられ、徳川の統治領になると甲斐に戻り、当別院の現在地である北山筋中郡遠光寺村に長延寺を再興する。
その後顕了は、武田家再興に参画したとされて流罪となり、その子教了が三代目を継いだが長延寺は廃寺となった。
1614(慶長18)年 本願寺12代目 教如上人が、廃寺となった寺地に本山掛所を設け化竜山光澤寺と号した。徳川幕府に請い、境内地1万8千坪、寺領20石の御朱印(花押のかわりに文書に捺したもの)を受け、諸殿諸堂を整え、以後、真宗門徒の護持によってこの地における弘教の中心的存在となった。
1716(享保元)年

辻藤右衛門により経蔵が、寄進される。(火災・戦火を免れて現存している。)

1856(安政3)年

本堂その他の堂宇が焼失し、1863(文久3)年、仮本堂が建設される。

1911(明治44)年 明治時代になって廃仏毀釈のあおりを受けて、山内寺院の統合などの経過をとおして、本堂が建立される。本山阿弥陀堂を模して造られた本堂を中心とする大伽藍であった。
この伽藍も大戦時、1945(昭和20)年7月の空襲によって全焼する。
1963(昭和38)年 別院本堂が再建され、耐火耐震設備を整えた現代的な建築物として今に至っている。
2016(平成28)年3月

甲府別院光澤寺宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修される。
この御遠忌法要の記念事業として、築50年を経過した本堂が改修され、儀式執行・仏法聴聞の場が整えられると共に、『甲府別院光澤寺史』の編纂に取り組まれる。

光澤寺について

  • 沿革

^@Jh@{莛

^@Jh

^@

ǂ݂ܐȁ@TOMOԂ

y^@hbgCtH

y[W擪