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伝道掲示板

正信偈に学ぶ(1)

2009.08.19

2009年8月19日盂蘭盆会法要

 

01-1

法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。

五劫、これを思惟して摂受す。

重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

 

私自身がこれをどういただいたらいいのかということを、暗中模索しているようなことで、そこからお話をさせていただいております。
「帰命無量壽如来 南無不可思議光」、親鸞聖人のご尊敬なされました曇鸞大師のお言葉を頂戴して仰られておることですが、親鸞聖人の信仰告白とでもいうべきものですから、これまで尋ねてまいりましたが、不十分な点がありありながら、すすんできております。

 

そして次の部分、「法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所にましまして」、から依経段といわれる部分であります。お経に依って大事なことをそこに示す、といわれてるところであります。親鸞聖人がそうおっしゃられたのではなく、後の学者の方が、依経段・依釈段とわけられました。

 

そこで、この依経段ですが、どのようなお経に依っているかといいますと、仏説無量寿経でございます。このお経に書かれておりますことを取り上げてきております。正信偈の「邪見驕慢の悪衆生、信楽を受持することははなはだもって難し、難中の難、これに過ぎたるはなし。」までが依経段といわれているところです。

経典は、いつ、どこで、どういう方々がおいでになって、どういうきっかけで、お釈迦様の説法が始まったか、誰が問いを発して、答えになったのか、ということが必ず述べられております。

仏説無量寿経は、お釈迦様の十大弟子のお一人で、上隋直近、いつもお釈迦様のそばに仕え、お世話をしていた阿難尊者の質問に答えて、お釈迦様がお答えになって話をされた。仏教の本意を解き明かさそうとしたお経、それが仏説無量寿経ということです。その経典の中で無量寿と。無量寿というのは、量ることができない寿命です。これは、もともとの言葉で言えば阿弥陀ということです。

その話の内容が、これまで3回ほど続けて尋ねさせております、正信偈の8行です。「法蔵菩薩因位の時、…」シチュエーションとしてはそういうことでございます。

 

01-2阿難尊者が問いを出して、そしてお話が始まりました。ということで、法蔵菩薩の物語が出てまいります。

昔むかし、はるか昔、法蔵という名の王様がおりました。その王様が、国を棄て王位を捨てて、世自在王仏の所(みもと)へ行って、「苦しんでいる人、悩んでいる人が大勢いるが、その人たちが、皆、等しく救わる道はないでしょうか?」と、こういうことをお尋ねになった。そこで、世自在王仏からお話を聞いて、何とか、生きとし生ける人たちにお伝えしていかなければならない、と。こういうことの中で、法蔵菩薩という方が願いを成就して、自分の発(おこ)した大変大きな願いを、世自在王仏の所(みもと)でお話をして、仏さまの教えを受けて、その願いを成就して、阿弥陀如来となられた。簡単に言うと、これが法蔵菩薩の物語です。

 

繰り返しになりますが、順番に尋ねてまいります。

法蔵(ほうぞう)、法の蔵(くら)。サンスクリット語では、dharm?kara(ダルマアーカラ)。ダルマが法です。アーカラが鉱脈という意味になります。表には見えないが地中深くに流れてつながっている、という意味があります。私どもの中に、自分では気が付かないけれども、ずっと眠って、そして流れ続けているもの、そういう意味を表しております。

菩薩とは、これもサンスクリット語を音写したものです。道を求めるものという意味です。目には見えない、気がつかないが、ずっと流れているもの、その道を求めざるを得ないというこころが表された名前が法蔵菩薩です。

因位の時ですから、法蔵菩薩がもともと、元の位(くらい)の時。因位ということを色々な先生に尋ねますと、どうしても私たちは結果を云々するが、上手くいったか否か、損か得か、出来る出きないかを云々するが、それだけで、世の中決めるのではなく、何かをしよう、と思う動機の部分が本当は大事なのではなかろうか。そのことを忘れてしまったら、本当に大事なことが見えなくなってしまうのではないだろうか、と言われております。

では動機のところはなにか。よく言われる例えですが、学生さんが親から仕送りを送ってもらって生活をしているときに、そのお金をもらった時にどう思うか。これが大事なことだと。子供たちを見ていると、それがよくわかる。感謝と感激でお金をもらう子もいれば、何の感情もなく、当たり前のように使ってしまう子もいる。このお金は大変苦労して稼いだお金、と書いてあるわけでもなく、お金に変わりはありません。買えるもの・使い出・金額は同じです。同じですが、それを受け取ったとき、そのお金がどのようにそのお金がでてきたか、そこにどんな気持ちが込められているのか、ということがわかる。これが因位の時、ということではないかと。

法蔵菩薩因位の時、本当に外には見えないけれど、脈々と流れている、道を求めざるを得ない、もっと言えば、道を求めざるを得ないということは、どんなに自分の思い通りになってもやっぱり満足できない。
満足ということは、満ち足りる、ということです。それこそ今から20年も30年も前に、こうなったら、ああなったらと思ったことは、ほとんど頂戴してる。結婚して、子供ができて、ある程度の家に住んで…、偉そうな顔をしてすごしておりますが、では、満ち足りているかといいますと、なかなかそういうわけにはいきません。

 

そういうものが、名前となった法蔵菩薩の元の心。もとの心は何であったか。

 

法蔵菩薩因位の時、在世自在王仏所

 

世自在王仏の所(みもと)にましまして。世自在ですから、世の中自由自在になることです。この法蔵菩薩の物語は何を表そうかとしていると、今の言葉でいえば自由ということです。自由自在。
在世自在、昔はあまり、自由という言葉はなかったようで、自在という言葉を使って、京都の大谷中高等学校の元校長先生で広小路先生は、「人間に生まれた限り、どうしてもやり遂げなければならないことがある。そのことが、様々なことによって妨げられずに出来る権利のことを、自由というんです。」と仰っておられました。今、誰も思っておりません。我儘勝手のことを自由と思っております。自由、ということはそれだけ責任があるということです。

 

そして、自由自在の仏さまの所へ行って、

 

覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪

 

私の解釈でございますが、諸々の仏さまが浄土にお生まれになられた。あるいは、浄土を建立された、と言っても良いかもしれませんが、浄土という国をお創りになった。そういうものの因です。きっかけ、願い、というものを具(つぶさ)に見られて、どういう気持ちで浄土を建立されたか、その国土の善と悪も具(つぶさ)に見られた。

お浄土だから善であり、悪は無いはずだ、こう思われるかもしれませんが。これも、色々な先生の本を拝見させていただきますと、国土の人と天の善悪、ということの中には、私どもが良かれと思ってしたことが、必ずしも良くはたらく、というわけには限らない。あるいは、悪かれと思ってしたことが、必ずしも悪くはたらく、というものでもない。ひょっとすると、良かれと思ってしたことが悪くはたらくこともありますし、悪かれと思ったことが、逆に良い結果をもたらすこともある。こういうことを、十分考えられ具(つぶさ)に見られた。

 

建立無上殊勝願、超発希有大弘誓。と続きます。無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。大変な言葉が並んできまして、大変大きい話です。無上殊勝の願です。無上とは字のとおりでございまして「上がない」ということです。では、無上の反対語は何かと言いますと、有上です。上がある。

無上、上がないということは、上下関係ないことです。上下関係ないと言いますと、お釈迦さまがお生まれになった時に、七歩あるかれて、「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたことを思い起こします。唯我独尊と言いますと、私一人が尊いということでなく、ここに生まれたということが、それだけで尊いということだ、と。

無上尊、という言葉がありますけれども、上とか下とか、出来るとか出来ないとかいうこと関係なしに尊い。尊い。そういうことを、殊更に願った願いなんです。一人ひとりが本当に尊い。太った人も痩せた人も、男の人も女の人も、体に障害がある人もない人も、本当に尊い、と言えるような教え・依り処を、何とか打ち建てたい、という願いを発(おこ)されたんですね。これが、建立無上殊勝願です。

そして、超発希有大弘誓。希有な、まれな、広誓いを発(おこ)されました。これだけが私どもを 拯(すく)い取らなければおれない、という仏さまの願いであります、と。このように続いていきますが、一言付け加えておかなければならないと思います。

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