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伝道掲示板

第7回 真城義磨先生のお話

2009.08.06

2009年8月6日暁天講座

 

我々は、良かれと思って知恵にしがみついてきたけれど、人間を見るのも都合で見ている。宗教というものさえも、私の都合を応援してくれる宗教、私の請求を満たしてくれる宗教が、人間の知恵から生まれてくるわけです。怪しい宗教の見分け方、いくつかあります。
まず一つ目は、信心なければこういう目に遭うぞ、と脅迫をする宗教です。これは仏教からは絶対に出てこないものの考え方です。
二番目は、何かというと、お金、お金、お金、という宗教です。これも近付かない方がいいです。
三つ目は何か。これが一番危ないんですが、あなたの願いが叶います、という宗教。
我々、それぞれ感情もありますし、何とか自分の願いをかなえたい、と思っております。例を出せば、今度孫が受験する。しかし話を聞いていると、第一志望の学校に受かりそうもない。学力も点数も足りない。でも本人はその学校に行きたいと言っている。それならば、お婆ちゃんが学問の神様のお宮まで行って拝んできてあげるから、となります。お賽錢上げて、奉納して…
でも、考えてみてください。家の孫が受かりますようにということは、入試の判定が不正に行われますように、ということです。つまり、普通に判定すれば落ちる子です。しかも定員があるわけですから、その定員の中で落ちる子が上がりますように、とお願いすることは、理不尽に、受かるはずの人が落ちてこないと、入ることはできない。ということは、こちらから見たら祈りですが、反対から見たら呪いです。
私たちが、限られたものを奪い合っている世界の中で、私の都合が通る、ということは、誰かが傷つき、誰かが嫌な思いをしている、ということです。
宗教という、本当の姿を教えてくれるものさえ我々は、そのように利用しようとしています。宗教の智慧より私たちの都合の方が先に来ます。そうではない、ということです。
再来年、宗祖親鸞聖人の750回御遠忌が勤まります。「今、いのちがあなたをいきている」が、テーマになっています。今から約50年前の昭和36年に、700回御遠忌が勤まりました。その時に、金子大栄という先生が、『宗祖を思う』という詩をお書きになられました。『親鸞讃歌』という名前で出版されております。
「昔 法師あり、親鸞と名づく。殿上(でんじょう)に生まれて‥」と始まります。金子先生は、親鸞とはこういう人だ、ということで、途中にこんなくだりが出てまいります。
 

本願を仰いでは 身の善悪をかえりみず
念仏に親しんでは 自(おのずか)ら無碍(むげ)の一道を知る
 

身の善とは、私にとって都合が良い。身の悪は、私にとって都合が悪い、ということです。私たちはこれが第一優先に来ますが、親鸞聖人は、本願を仰ぐ、ということが第一優先です。
雑行を捨てて本願に帰す、と29歳の時に宣言されました。雑行とは何か。私なりの言い方をすると、人間の知恵から始まる一切の動きを全部雑行と言います。私が苦悩している、私が学んでいる、私が聞法している、私がその聞法の・修行の進み具合をチェックしている。そして私が改善し、私が解決を望み…。全部私が、私が、となっていきます。その私は、人間の知恵で考えた、私の都合というモノサシから離れられない。煩悩一杯の、この私が、です。mashiro-3
それがいかに真剣であろうとも、それしかない、と思って進んでられた親鸞聖人は、その一切を雑行という名前で、そして雑行を捨てて、と。これ、大転換です。
 

本願を信受するは、前念命終なり。(真宗聖典430㌻)
 

本願というものを、あるいは、ご信心を賜ってみると、「前念命終なり」。私が今まで一番大事だと思っていたものが、死んでしまう、壊れてしまう、通用しなくなってしまう。
と、同時に、本願を仰ぎながら、活き活きと生きていく人生がスタートしていく。本願を仰ぐと、私の都合と請求しかない人間の知恵の限界を知った上で、法然上人も「浄土宗の人は、愚者となりて往生す」と言ってられますが、愚か者になって、一回、人間の知恵というものから手を離せ、そして、仏さまが私に、何を仰っておられるのか、何を願って下さっておられるのか。というところを聞いていけ、と。その表れが、念仏、南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏の生活が始まっていくと、自ずから、無碍の一道が始まります。碍というのは、障害、妨げ。
私にとって一番都合の悪いものを碍と言います。無碍とは、その障害物を乗り越えることが出来る、という意味ではありません。今まで不都合だと思っていたことが、実は大事なことだった。年をとったから出来ない、こんなになってしまったから出来ない、と、自分にとって一番不都合だと思っているものが、年をとることから、どれ程のことを教えられ、学ぶことが出来るのか、気が付くか。自分の連れ合いの葬式を出さなければならないとき、何でこんなつらい目に遭わなければならないのか、と思う。しかし、そのことが、どれ程自分の物の見方を変えてくれるのか。もっと言えば、我々人間の知恵を深くしてくれるのか。私が自分の連れ合いのことを、やっぱり都合でしか見ていなかったところもあった、ということを教えてもらう。その人が、自分にとってどれほど大切な人であったか、ということを再認識させられる。
その上で、中陰を勤め、年忌法要を勤める中で、仏さまとなられた私の連れ合いは、今、私に何を願って下さっておられるのか、私がどうなって欲しいと願って下さっておられるのか、というように、想像する、モノを見ようとすると、今まで自分の都合さえ通れば良いと思っていた私が、変わっていくことになる。
このように、無碍というのは、(障害が)大切なものに見方が変わる、ということです。思い通りにしたい、思い通りにならない、このギャップのことを苦と言います。その反対が無碍です。不幸の種だと思っていたことが、私にとって、私の目を開かせる、私が学ぶことができ、そのことによって成長することができる大事なことであった。逃げない、顔をそむけない。私に与えられたことは、私の都合に合おうが合うまいが、きちんと引き受けていく。それが念仏の生活です。
 
 

⑧続く

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