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伝道掲示板

第8回 真城義磨先生のお話

2009.08.06

2009年8月6日暁天講座

 

私たちは、敵か味方か、徳か損か、成功か失敗か全部分けて、プラスの方をとってマイナスの方を捨てよう、としますが、どのことも大切だと。
人間でいえば、年とって、寝たきりになろうが、認知症になろうが、人間の尊さは、一かけらも損なわれることはない。

 

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる(浄土和讚 真宗聖典486㌻)

 

親鸞聖人は、何故、阿弥陀という名前が付いたのか。摂取してすてざれば、絶対に捨てない仏さまだ。誰から捨てられようが、誰から見切られようが、阿弥陀という仏さまだけは、どこまでいっても絶対に、その人を捨てることがない、と約束されている。私たちの中に、阿弥陀さんから捨てられる人は一人もいない。何故か。阿弥陀さんから見れば私たちどの人をとっても、本当に尊い存在だからです。私たちは、自分で自分の尊さを見ることができない。自分の知恵と都合と請求に立っているから。
念仏の生活が始まると、雑な言い方をすれば請求に対して領収です。領収書。常に大事なものはいただいております、と。お陰さまのど真ん中で生かされて生きております、という世界が開けてくるのではないか。

 

このようなことで、私たちは何を本当に大事にしていかなければならないのか。我々は、この経済生活の中で、私の知恵・都合・請求を捨てて生きることはできません。機能のレベルアップもしなければなりませんし、出来れば収入も多い方がいい。一生懸命頑張って地位も上げていったらいい。だけれども、それらを失ったからといって、人間そのものの価値はいささかも損なわることはない、ということをきちんと持つ。どんな状態になっても、私が今生きている、ということは大事なことだ、ということです。
寝たきりになる。都合から言えば悪いことですが、都合が悪いだけのことです。というようなことを、本願を仰ぐ生活の中で、気づかせていただく。そうすると、「帰命無量寿如来」です。無量という、数えない、量らない、比べない、という世界です。化学技術の世界は、数量・数値化の世界です。あるいは合理的説明の世界です。それに対して、『正信偈』の二句目から、「不可思議」、あなたの知恵で、数字の積み重ねで分かる世界ではないですよ、と。不思議と感動して受け取っていく世界。色々なところから色々なことを教えていただく。
このようなことである、ということを、これから色々な形で仏法に聞いていきながら、我々が大転換する、ということはなかなかありませんが、また我儘になっていた・私の都合を通していた、ということに気付き、ともに生かし生かされ合う在り方を、どうしたら実現するか。私がかける言葉ひとつが、私にとっても相手にとってもいい言葉は何か。
このように、ものの見方、考え方が少しでも転換すれば、と思うことであります。早朝より、お見えいただき話を聞いていただき恐縮ですが、以上とさせていただきます。

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