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伝道掲示板

近田昭夫先生「よきひと法然上人」(6)

2009.04.10

2009年4月10日 春の法要

 

今日は、法然上人の話しをしようと思ったけど、全然法然上人に入ることが出来ませんでした。すみません。お詫びいたします。
もう時間が過ぎてしまいました。すみませんでした。法然上人の話はイントロだけで今日は終わり。要するに、こういうこと。もうちょっといいですか。
 

私、昨日あるお寺のご住職のお通夜に参りました時に、となりにおられた方がそこのお寺の坊守さんのご兄弟で、岐阜県に養老の滝があるんですが、そこの近くの養老町のお寺のご住職が見えていて、そこで「坊守さんのご兄弟でいらっしゃいますね」ってご挨拶したら、「そうですって」。そこで色々な話をして、実はその方の亡くなったお父様が、舘(たち)義(ぎ)順(じゅん)という先生だったんです。全国をご法話で歩かれる先生で、私の寺に、私が30代の頃ですから、もう今から40年以上前にその舘(たち)義(ぎ)順(じゅん)先生に二回お出ましをいただいて法話を頂戴したことがあるんです。その先生はたった二回お出で下さってお話をいただいただけなんだけれど、その二回の話、二回ともの話で、いまだに私が印象に残っているのが二つあるんです。そのうちの一つをね、ちょっと申し上げたいと思います。 岐阜県にある養老の滝。どうしてそういう名が付いたかというと、ここに年は若いけど大変親思いの息子がいたんだそうです。ある時その男が夢を見た。そしたら神様が出てきてですね、
「お前は親孝行だから褒めてとらす」と。
「そなたの親孝行に愛(め)でて、そちに福徳(ふくとく)を授けてやる」と。
「あ、そうですか」。
「明日、近くに滝があるからそこへ行って滝壷に一升瓶を置けと。そうすると、滝の水を美味しい、素晴らしい、どこにもないような素晴らしいお酒に変えてやるから、それを酒屋に持っていってそれを売ったらお前は金持ちになるだろう」って、こう言われたんだ。
 

まさかそんなことはないだろうと思ったけれど、駄目で元々と思って一升瓶を持っていって滝壷に置いた。水が一杯になったからそれを持って近所の酒屋へ行ったら、酒屋の親父が一口呑んで、「こんな旨い酒は、俺は知らない。お前どこで仕入れてきた」と。
「それは言えない」 「じゃあ、何でもいいから毎日何本でも持ってきてくれ」って。
それで、この男は金持ちになりましたと。親孝行の徳のあらわれで。それでこの滝を養老の滝と名づけたと。
ここは観光名所なんです。そこに観光バスが来る。そうすると、そういういわれのある所で、また、なかなか水質がとてもいい水なんだそうで。そこで滝が近くにある店でね、一升瓶が売ってる。それを全部滝つぼに置く。そうすると滝の水は上から下に落ちる。そこに一升瓶を置いとくから、放っていたって水が一杯になります。お酒にはならないけど(笑)、とても水質のいい水なんで、皆さんがそれを持って帰る、面白い所でありましてね、という話なんです。
私がそのことから思ったことです。今日最初に「今日初めてお見えになった方」って申し上げまして手を上げていただいたんです。その他の方はもう、私よく存じ上げている方が大勢さんいらっしゃいました。よく仏法を聞いていらっしゃる方ばっかり。下手な坊さん話にならないくらいの立派によくご聴聞なさって…。仏法の聞き方って、なかなか簡単なようで簡単でないんですよ。一升瓶を滝壷へ置いておくだけでは駄目なんですよ。どうして駄目なんでしょう? フタをしてたんでは駄目なんですよ。一升瓶のフタをとらなきゃ。キャップを付けたまんまですとね、どれだけ滝の水を浴びても瓶はぐっしょり、持てばポタポタ垂れるくらいになっても中には一つも入らない。
滝壷に置かれているんですから、キャップを取りさえすれば「無辺(むへん)の聖徳(しょうとく)、識(しき)心(しん)に攬入(らんにゅう)す」(真宗聖典186頁)という言葉がありますが、一時にざっと仏法の徳が満ち満ちてくださる。だから仏法聞いて「分からん、分からん」というのは小難しいからではないのです。自分の考えと御歯が合わんからですよ。それで、人間の考えではこの人生は間に合わんということを見出されたから仏がこの世にお出ましになったんですから。そこの所を一つ聞き分けて知らせていただくってことが、「私の考えは間に合わなかったんだな」ということに気づかせていただくというのが、キャップが取れると。キャップが取れたら、「我が弥陀は、名(みな)をもって物を接したもうた。‥無辺の聖徳、識心に攬入し、永く仏種となりて、頓(とん)に億劫(おっこう)の重罪を除き、無上菩提(ぼだい)を獲(ぎゃく)証(しょう)す」(真宗聖典186頁)という言葉が『教行信証』にございますとおり、そのキャップが取れたら一瞬のうちにこの私の中に滝の水が満ち満ちてくださる。
 

ですから、この仏法を聞かせていただく時に、「自分の心で考えたことや何かは、本当に間に合わないんだな」ということ一つが気づかせていただけるかどうか、ということがキャップが取れるかどうかということの問題なんではないかと思うんです。そうでないと、回を重ねて長く仏法を聞かせていただいても、歩けばぽたぽた水が垂れるくらい仏法が垂れて歩いているような人もいますけれど、中に入っていない人もいるからね。だから、問題はそこの所がもう一つ、そういうことが大事なことではないかということ思わせていただいたようなことでございます。
あの、ちょっと時間が過ぎましたけれども本当に申し訳なく、法然上人に対してお詫びを申し上げます。しかし、用意してきたことが間に合わんというのはこういうことですね。死ぬばっかりじゃなくて、娑婆の、何でもないことが、用意してきたことが間に合わんというのは、なるほどということかと、本当に今日はお恥ずかしゅうございます。
 
 

文字数の関係で、内容と段落分けが適切でない部分もありますが、ご容赦いただきますよう、お願いいたします。

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