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伝道掲示板

近田昭夫先生「よきひと法然上人」(5)

2009.04.10

2009年4月10日 春の法要

 

 

お釈迦さまがご存命の時に、皆がお釈迦さまのことを何とお呼び申していたかというと、「世尊よ」と呼びかけておられた。世尊という言葉は、普通に考えると「この世で一番尊い方」と、こういう意味なんです。
私は、ある時ふっと思いました。世と尊というのは、意味が違う言葉だと。「世」というのは、これ世間です。世間というのは何かというと、これ比較相対です。人と比べてちっとはマシだとなると、自信らしきものを起こす。人と比べて駄目だっていうと、何か落ち込む。そういう繰り返しなんです。そういうコンプレックスの中、それが私の現住所なんです。我が思いの中しか生きていないという。
対して「尊」というのは、「とうとい」とか「たっとい」と読みます。現代はもうね、「とうとい」とか「たっとい」という日本語が死んでおります。昔はそれでも、「とうといことですね」っていうようなことが、まあ普通の言葉のなかで、たまには使われましたが、今はあまり使われません。「オー、ワンダフル」、「オー、ナイス」、「スゲェー」とか。ご立派になってはいるけど、「とうとい」とか「たっとい」という言葉は使わない。で、「とうとい」とか「たっとい」という、そういう言葉が使われなくなったということは、「とうとい」とか「たっとい」という意味が全く分らなくなっているのが現代だということなんです。
 

では、「とうとい」っていうのはどういうことかというと、私が使っている漢和辞典では、この尊、「とうとい」「たっとい」というのは、「立っているものがスックと、しかも静かに落ち着いているさま」を表す文字・意味だと書かれておりました。お釈迦さまのことを、仏のことを、世尊とおうやまいして、皆がお呼びしたんですね。仏の教えというのは仏の教えをいただいてどんな人も仏になれると。どういうことかというと、つまり世尊の教えをいただいたら、全ての人が世尊たらしめられるということです。世というのは、世間の中に生きていながら、自分が自分であるということに静かに落ち着いて、自分が自分であるということに自身をもって、自分が自分であるということを愛して、そういう身にならせてもらえる。こういうことなんです。
世尊という、こういう世と尊とは意味が違うというところに私は非常に大事な意味があると思うんですね。ですから、仏さまの教えというのは、世尊の教えは万人をして世尊たらしめようとする教えであると。そういうことが象徴的に、仏教では蓮の花ということで喩えられております。蓮の花といいますと、法事の時に引き物に使われますので、あまりめでたくないものかと思いますが、どうしてどうして、私がインドに参りました時には、結婚披露宴で花嫁さんが蓮の花を持っていました。聞きましたら、お嫁さんは結婚式に出るときに蓮の花を持つことが多いそうです。インドでは蓮の花というのは、素晴らしいめでたい花と考えられているんですね。仏教では蓮の花のことを、仏さまのお悟りを象徴するものとしております。ですから、蓮の花のことを清浄華というんです。これ普通は、「せいじょうか」と読むんですけど、仏教では、呉音(ごおん)で発音しますから、「しょうじょうけ」と発音するんです。清らかな花。
「清らか」というのは、「綺麗」というのと違います。綺麗な花というのは、泥をかぶると汚くなってしまう。ところが、泥をかぶっても泥に染まらぬ、というのが「清らか」ということです。そこで仏のお悟りのことを、仏さまのことを象徴する時に蓮華で象徴するのは非常に大事な意味があるんですね。この世というのはどぶ泥、まさに汚染されている世界です。そこの中にありながら、泥の中にありながら花を咲かす。蓮の花というのは、涼やかなところとか清らかなところというような綺麗なところには咲かないんですね。泥田に咲くんです。どぶ泥の中から生えていながら、泥に染まらないということです。これが非常に、蓮の花の清らかというようにいわれている意味です。ただ美しい花とか、綺麗な花っていうだけでしたら、泥をかぶったら汚くなってしまうんです。
 

そういう意味でいま申し上げた世尊という言葉は面白いですね。比較相対のコンプレックスの中で、人と比べて自分がどうなのかということで、一喜一憂しているというのが、私どもの生き方です。そういう私どもが、仏さまの教えをいただくことによって初めて「自分でなければやれない仕事」というものを見つけることが出来るんです。
それが何かといったら、いわゆる世間の仕事とは違うということです。例えば、今日私がここでお話しをさせていただくのは、随分前から甲府別院の春の法要に出講してほしい、というお話がございましたので、久々に参らせていただきましょう、とお約束した訳です。私だって今日行く所が無いからここに来た訳ではありません。今日私がここでお話をしているのは、私にとっては大事な仕事をさせていただいております。面白半分でやっているわででもありません。だけど、これは私でなければやれない仕事ですか? 私でなくてもいいんです。誰でもいいんです。たまたま今日私がこういう役割に当たっているというだけなんです。代わりはなんぼでもいるんです。
会社で大事な仕事、家の中で私がいなければ、と頑張っていらっしゃるけれど、それは思っているだけのことです。「私がいるから家がもっている」なんていう婆さんが死んで、かえってうまくいったりするんですよ。(笑)だから、「私が私が」っていっておりますが、本当をいうと「自分でなければやれない仕事」なんてこの世にはないと思う、私。総理大臣であろうが、大統領であろうが、ケネディーだって死んだら、あれで銃弾で倒れたらすぐ副大統領が大統領にならざるを得ないでしょう。そうせざるを得ないでしょう。だから、自分でなければやれない仕事なんていうのは、ハッキリ言ったらこの世に一つもないですよ。誰でもやれることをやらせてもらっているだけの話です。
 

だけど先程申したように、私がこの世に生まれ出たとき、親を選んで生まれたものでないというところ、そこに強制贈与というところから人生がスタートしているということになると、私が私であるということをこのままでは100%認め難いという、こういう問題があるということです。ですから、私でなければやれない仕事っていうのはこの事なんですよ。私が私であるということに本当に自信を持って立てるかどうかなんです。私どもは自信を持ってというと、人より優れた能力を持ってと、そう考えてしまいます。そういう風にしか考えられない。比較相対の娑婆に汚染されていますから。そういうのと話が違うということ。
こういうことを聞かせていただいて、それが仏さまが世にお出ましになった、仏法に出遇うということの、私や私どもにとって一番大事なのはそこのところだろうと思うんですよ。そして、私でなければやれない仕事を果たし遂げるというのは、私が私であるということに本当に自信を持って…。
『大無量寿経』という経典の中で、お釈迦さまのご説法の中にこういう、「各各(かくかく)安立(あんりゅう)」(真宗聖典43頁)という言葉があります。各々が安んじて自分に立てるということです。その自分というのは、本当にどうしようもない奴なんです。お粗末な奴なんです。立派な私ではないんです。立派な奴とか駄目とかって、そういう価値判断は世間常識ですから。そういうものを超えて、だから「世において尊」という。比較相対のこの世において本当に尊いということは、本当に「私が私である」ということに安んじて立つことが出来る。
また、「安んじて」という言葉ですが、これは唯識(ゆいしき)という学問が仏教にありまして、その中で「軽安(きょうあん)」という言葉がありまして、私が好きな言葉なんです。お念仏の教えをいただくと、どういう生き方が自ずと出来るようになるかという。軽安という生き方が出来るんですよ。軽安というのはね、軽やかに安らかに、と。重苦しくない。軽やかに。軽やかって大事なんです。重苦しいんだわ、大体…。そういう所がこの、軽やかに安らかにというところの問題です。
 
 

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