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伝道掲示板

近田昭夫先生「よきひと法然上人」(3)

2009.04.10

2009年4月10日 春の法要

 
 

段々本題に入っていかないといけないんですが。次に「大乗仏教の課題は時間空間の制約を超えて、万人等しく転迷(てんめい)開(かい)悟(ご)を果たすに在る」と、難しいことを書いておきました。先程、ご輪番である東京教務所長が、今日は親鸞聖人のお誕生会を春の法要としてお勤めいたします、とご挨拶なされました。親鸞聖人は4月1日にお生まれになられたと伝えられております。京都の本山・東本願寺では、春の法要といいまして、4月の1日から大体4日まで法要が勤まります。その初日が親鸞聖人お誕生のつどいということで、音楽法要が勤まります。その音楽法要の時に、先程のお勤めで読まれました
一一(ちいち)のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明照らしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
(真宗聖典482頁)
 

という親鸞作の和讃を合唱団が歌います。そういう音楽法要が4月の1日に勤まります。 また、4月の8日はお釈迦さまのお誕生日です。お釈迦さまがお誕生あそばされたというのは、仏(ぶつ)がこの世に現れたということです。お釈迦さまがおでましになったというのは、仏がこの世に現れたということです。「出世」といいます。「出世」という言葉は、立身出世というふうに、どうも考えられますが、これは、世の中に生まれ出た、ということです。この我々の生きている人間世界に、仏がおでましになったということです。それがお釈迦さまがお誕生あそばされたという意味です。ですからもっと言いますと、法然上人が世にお出ましになった。親鸞聖人が世にお出ましになった。お釈迦さまが、仏が世に出現されたことと同じ意味なんです。
 

話があちこちになりますが、4月になりますと色々なお寺で花(はな)御堂(みどう)を置いて、そこでお釈迦さまの赤ちゃんのお像を御安置いたします。仏像のなかでおチンチン丸出しというのはあれだけです。他は全部、何か薄布でも身に纏っておりますが、全部素っ裸というのは、誕生仏といわれる、お釈迦さまがお生まれあそばされた時のお姿という、あれ一つに限るんです。こうやって天と地を指差しておられるでしょう。そこに甘茶をかける。花御堂でお釈迦さまの像に甘茶をかけるのは何かというと、仏が世にお出ましになったというので、天地が感動しました。天が感動したんです。「ああ、本当に目覚めた方が人間世界にお出ましになった」と。これは、人間世界で大変なことだというので、天地が感動したんです。天が感動して、感動のあまり雨を降らせた。「甘露(かんろ)の法(ほう)雨(う)が降り注いだ」という伝えから、甘茶をかけます。
 
 
それからもう一つ、『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』の最初にあります。これは意外と甘露の法雨より大事なことです。「仏が世にお出ましになったら、六種震動した」と書かれております。六種震動というのは、六種類に揺れたということです。仏が世にお出ましになったら、大地震のようになった。 今東海地震が心配だといわれております。横揺れより縦揺れが怖いっていいます。横揺れよりも縦に揺れるほうが家が倒壊しやすいから気をつけなさいと。横揺れと縦揺れ、これ二種震動。六種震動となれば、斜めに揺れたり大変なんです。縦横めっちゃくちゃに揺れる、六種震動としていわれておりますことは、つまり今まで我々が作ったものは全部潰れるってこと。
仏がこの世にお出ましになるということは、我々が作ったことが全部潰れるということです。嫌なことをいうでしょう、仏教ってね。こんなこというから流行らないんですよ。自分で作って用意したものが全部潰れるってことは、死ぬっていうことです。死ぬ時には、死の為に用意したものも間に合わないのが死ですからね。死の為に準備したものが間に合わなくなるのを死というんですから。我々の考えたものや作ったものが全部間に合わないというのが死ですから。その死を超える道というのが何処で成り立つのかということが、実は仏が世にお出ましになったということなんです。ですから世間では、高学歴で社会経験が豊富な方でも、結構つまらないことに気を遣っておられます。例えば、駐車場だとかホテルのルームナンバーだって、4の字を避けます。この前、北海道にいってあるホテルに泊まったときのことでしたが、おかしいんですよ。4階なのに503号室なんです。あれやっぱり4の字を避けるんだね。1階、2階、3階、5階なんですよ。バカみたいな話だけど、そういう事がある。この辺ではどうですか、東京辺りだと火葬場に行く霊柩車の後についていくハイヤー。1号車、2号車、3号車。そして3号車のAとBと書いてある。4の字を避けるんです。そういうことが、結構な教養や学問もあり、社会的経験も豊富な方が、そういうどうでもいいことに振り回されております。どうでもいいことに振り回されているから、一番肝心なことが見えなくなるんです。悲しいかな、世間、そして世間を生きている私の感覚はどうでもいいことで悩んでおります。本当はもっと悩まなければならないことがある。大事なことが。
 

お寺はよく年配の方が来られます。から、まあ平たくいうと、よく婆さんが来られる。それで、よく来られ方たちの話を聞いていると面白いですね。「あと残り時間が目減りしている」とか、「あとどれ位生きられるか」とかって。「そうだね」って言いながら話の中に入ると面白いです。この間も寺の法座の時にそうやって婆さんが3・4人早く来られた方が、「住職、こうなると何にも仕事がなくて、だから早く来すぎてごめんなさい」と言って、「構わないんだよ」と返してね。そして、色んな話をしていて、「何にも仕事がない」っておっしゃる。だから、「大仕事が残っているぞ」って言ったんです。「後生の一大事という大仕事はどうなりましたか」と。そうしたらキョトンとして、「そんな仕事あったんですか」って。
 

つまり、さっき申し上げた、親を選んで生まれ出たものはないということですから、自分の人生にまるごと納得できる、とうことでこの人生をスタートした方は一人もいらっしゃらない。この私をまるごと本当に受け入れて、この私が私であるということに、静かに自信を持って立てるということがなかなかできない。いつも人と比べて、ちょっと優れているなっていうと、「俺もまんざらでなし」と。この反対に、人より劣っているなと気が付くと、「ああ、やっぱり俺は駄目だ」と。こういうのをコンプレックスっていうんです。 いつも申し上げていることですが、ある時ちょっと話に来るようにといわれたときに、講題・テーマを出せといわれたので、「あなたの現住所ってどこですか」というテーマを出しました。例えば私に、「あなた何処にお住まいで」と聞かれたら、私は名刺を出します。東京都豊島区南池袋4丁目って書いてある。私、いつもそこにいる訳ではないんです。今日は甲府におります。でも明日までいる訳ではありません。何時間かすると今度は、中央線の車内にいる事になる。ですから、私の名刺の東京都豊島区南池袋4丁目というのは連絡先。厳密にいうと、現に私が生きている現実の土俵ではなく、手紙の届く場所であるに過ぎないんです。では私が生きている現場はどこだといったら、自分の思いの中しか生きたことがないんですよ。だから、思いの中というのは、鼻の高い思いと肩身の狭い思いの中なんですよ。鼻の高い思いというのは、ちょっとどこかで人に何とか言われると鼻の高い思いがしたっていいますよね。じゃあ、鼻が伸びたのかっていうと鼻は伸びてないです。鼻が高い思いがした。今度はどこかに行って、みんなが、素晴らしいドレスアップしたところに自分が普段着で行ったら、ちょっと肩身が狭かった。肩身が狭かったっていっても、肩幅が縮んだわけではないですよね。肩身が狭い思いがしただけでしょう。だから、人間はどこに生きていのかといったら、肩身が狭い思いと鼻の高い思いの中の往(い)ったり復(きた)りなんですよ。どっちに近いかで、ご機嫌になるか自信喪失するか。その繰り返しなんです。だから永らく生きても。
 

先程、親鸞聖人は「死なないでいたのでない。生きていられた」と申したことはこのことです。我々は、ただ死なずにいるのかも知れないけど、思いの中しか生きたことがない。50年・60年たったら空気の流通が悪いから、「何だかとりたてて不足・不安はないけれどもなんだか毎日つまらなくて」と、よくおっしゃる方がありますが、そうなるのは当然なんです。自分の思いの中しか生きてないんですから。 そのことを本当に、せっかく縁があって人間世界に生まれ出て、言葉の分る世界に生まれ出ていながら、自分の思いの中に閉ざされている。そのことが、それでは本当にもったいないのではないか、と。それではアンタ、死んでも死に切れないんじゃないか。
この「死んでも死に切れない」という言葉は大事ですよね。ある時、私は本当にそう感じました。皆、「死ぬにも死ねない」、「死んでも死に切れない」と言いながら死んでいくんです。100%死んでいくんです。結局、そう言いながら死んでいくと何が残るかというと、思いが残る。「私の人生って何だったんだろう」と。そうなるんですよ。だから、思いが残るということがあるから、「死んだ人が浮かばれてないんじゃないか」とかいうことを心配せざるを得ないんですよ。これが日本の国のほとんどを覆いつくしている霊信仰というものですね。亡くなった人の亡霊が浮かばれていないんではないかとか。こういうことが非常に気になるというのは、死んだ人の霊魂がそこらここらをうろちょろしていなさるっていう話じゃないんです。今、ここにいるあなたや私が、「自分でなければやれない仕事」を果たすことが出来ないでいるってこと。
 
 

④へ続く

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