近田昭夫先生「よきひと法然上人」(2)
2009.04.10
2009年4月10日 春の法要
このことは、我々にとって、ものすごく大事な意味を持っているんです。第一、九つのときに親元から離れて坊さんになる…、考えてみてください。よく、世間で何かあると、「私、何も悪いことした覚えがないのに、何故このような目にあわなければならないのか」と愚痴(ぐち)をいいます。法然、親鸞も御歳九つで、何も悪いことした覚えはないのに、何故こんな人生を歩み始めなければならないのか、と。自分の人生に恨みを抱かれたに違いないと思います。こういうところから出発して、問題を根本的に乗り越えて解決するということを、人生において実現されたのが法然、親鸞という方です。昔の800年、700年前の偉い人、という話とは違います。
私どもも考えてみましたら、親を選んで生まれ出た人はいないですよね。私もそうです。現在、池袋のお寺の住職をしておりますが、浅草の真宗大谷派のお寺の次男坊に生れました。寺がよくて寺に出てきたのではありません。出てきたら寺だった、というだけの話です。おまけに次男坊でしたから、兄がいる。私は、兄貴までは必ずしも必要としていなかったけれども、出てきてみたら先住民族としていただけの話です。兄弟なんてそんなもの。いらないけれど強制贈与されている。また、もって生れた色々な気質・体質があります。気が弱い体質、どうでもよいことをしゃべる体質、糖尿病になりやすい、高血圧など、みんな強制贈与です。女がよくて出てきたのではない。出てきてみたら女だった。天皇さまだってそうでしょう。愛子さんも皇太子も同じです。なんでこんなところへ生れなければならなかったか、と、お悩みになったはずです。宮内庁発表がないだけの話です。どなたの人生も、そういうところから始まっているんです。
ですから、そういうところでこれらの問題を考えていったときに、法然、親鸞は昔、偉いお坊さんが日本の国にいらしたそうだ、ということではなく、自分というものに、自分が自分である、ということに本当に自信を持ち、私が私である、ということに本当に落ち着いて喜びを持って生きられるということを、本当に身をもって生きられた方です。そこに私どもが、時代を超えて、法然とか親鸞という方の教えの言葉に耳を傾けていこうとせざるを得ない理由があるんです。いわゆる昔の偉人伝とは違う、ということを今日はご一緒に考えてみたいと思います。
「よきひと」という言葉は、親鸞聖人の語録として非常によく読まれております『歎異抄(たんにしょう)』第2章に出てきます。例えば親鸞聖人に「あなたのご信心はいかなるものでございましょうか」とお尋ねしたら、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせを被って、信ずるほかに、別の子細なきなり。これが私の信心であります。」というご返答がかえってくる。親鸞聖人自身の言葉で仰っています。「よきひとおおせを被って」と、ここに「よきひと」という言葉が出てきます。
この「よきひと」という言葉、私は素晴らしい言葉だと思います。伊藤左千夫という『野菊の墓』という作品を書いた作家がおりました。作家でもあるし歌人でもある。歌を詠む人ですから、言葉にものすごく敏感なんです。言葉の感覚が、非常に鋭敏な感性をもっていらっしゃる。この人が、『歎異抄』の「よきひと」という言葉を取り上げて、最も美しい日本語の一つであると絶賛しています。
つまり「よきひと」という言葉ですが、親鸞という人は鎌倉時代に90年間生きられました。今でしたらそんなに珍しくはないですが、今から800年前の鎌倉時代に90年の人生を生きられたというのは素晴らしいですね。しかも親鸞聖人は、90年間本当に生きておられました。私は昭和6年生まれでもうじき78歳になります。後期高齢者で、そろそろ介護が必要なくらいの年です。これくらいの年になるとつくづく思いますが、「生きている」のと「死なないでいる」のとは違います。私は80歳くらいになりましたけれど、本当に生きているのか死なないでいるのかどっちなんですかね。それで、親鸞聖人というのは90年死なないでいたのではないんです。90年の人生を本当に生きた人です。
今日我々が、会ったこともない方に「しんらん、しんらん」と言うことがなぜ出来るかといったら、それは生まれ故郷の都に帰られて、60代の始めから88歳まで著作を続けられたからです。著作って凄いことです。今の時代には考えられないですけれど、電話をかけたりメールを打つのと違い、自分の考え・思想、信念を全く関係のない人に伝えるという作業が著作ということです。容易ならないことです。「桃の花が咲きました」なんていうそんな調子ではないんですよ。著作ということで、著すという容易ならないことを、88歳の時、『弥陀如来の名号を説く』という、小さな著作ですけれども著された。親鸞という人は、「死なないでいた」90年ではないんです。「生きていた」んです。
その親鸞聖人が、90年のご生涯で何が一番大事なことかといったら、法然上人に出(で)遇(あ)ったということだと。法然上人に出遇ったことで、私は本当に人生の眼(まなこ)が開かれました。そういうことを常々お考えになっておられるから、法然上人が私にとって正に「よきひと」ということになった。そうすると「よきひと」という言葉は凄いことで、「あの人、いい人」っていうのとはちょっと違います。正に「よきひと」として出遇われた。
その法然上人のことを『正信偈』で「本師源空仏教に(・)明らかにして」と。「仏教を(・)明らかにして」ではなく「仏教に(・)明らかにして」です。仏教というのはいかなるものであるかということを非常にはっきり私どもに示して下された。やはり親鸞作の「和讃」に、
智慧光のちからより
本師源空あらわれて
浄土真宗を開きつつ
選択本願のべたもう (真宗聖典498頁)
と、法然上人のお徳をほめたたえておられるんです。
ここに「浄土真宗を開きつつ」とあります。世間の常識からいうと、法然上人を開祖と仰ぐ仏教を浄土宗といい、親鸞を宗祖と仰ぐのが浄土真宗です。宗祖親鸞聖人と申し上げております。ところが親鸞聖人は、「私が浄土真宗を開いた」とは仰っておられません。「法然上人が浄土真宗を開かれた」と。そうすると、浄土真宗とは宗派の名前とは違うんです。今日では、浄土真宗というのは宗派の名前に成り下がっておりますが、親鸞聖人は浄土真宗というものを一つの宗派の名前、セクトの名前として用いておられません。その証拠がここです。
浄土真宗というのはどういう意味かと申しますと、浄土真宗の「宗」というのは「むね」と読みます。宗というのは扇子(せんす)、扇子というのは要(かなめ)が入っております。要が入っているから扇子の役をするんです。要が抜けていたら、どんないい材料の竹であれ、そこに描かれている絵がどんな素晴らしいものであろうとも、値が高いといっても扇子の役をいたしません。少しぐらい紙がボロで竹が真っ黒になっていても、要さえ入っていれば扇子の機能を果たします。そういう意味で「宗」というのは、この要という意味、つまりキーポイントという意味です。真宗というのは何かというと、「本当のことは何かということを考えましょう」ということです。
名前を出して申し訳ないですが、今から30年くらい前、創価学会がもの凄い折伏(しゃくぶく)活動をしておりました時に私の寺へやってきまして、「浄土真宗の寺をやめて創価学会に入りなさい」ということをお勧めにご親切に来てくださった。そのときに色々論争をしましたけれど、創価学会の教学局が発行した『折伏(しゃくぶく)経典』という本を置いてってくれました。その第一巻の第一号に何が書いてあるか。日本の国では昔から、真・善・美ということが人間にとって最も願わしく望ましいことだと言われてきた。本当のこと、真(まこと)、善と美しい、麗(うるわ)しいとか。けれども、私ども創価学会はそうではない。利・善・美であると。利と言ったら利益の利ですからね。自分にとって得になると。ですから、本当か本当でないかっていう考え方ではなくて、私にとって損か得かということを考えている。決して私が悪口で言っているのではなく、創価学会の教学局が責任を持って発行した『折伏経典』の第一巻の第一部の、のっけ(・・・)に書いてある言葉です。ああなるほど、これは同じ仏教ということをおっしゃるけれど、「この信心をするといいことがある」という。ですから、創価学会ではご本尊のことを幸福製造機と名付けております。機械であると。あそこは何でも「大」の字をつけるのが好きだから。大御本尊ですか、日蓮大上人が仰がれた大御本尊は幸福製造機であると。これがちゃんと『折伏経典』に書いてある。末端のいい加減な信者が言っていることじゃないんですよ。責任をもって編集した中でそういってありますから。そうするとこれは法然・親鸞という方の「本当のこととは何か」ということを考えていこうとする姿勢とは、これは違うなと。同じ仏教といっても、これは全く違うなということを、今から何十年も前に知らされた。
今ここで言いたいのは、浄土真宗とは宗派の名前ではないということを申し上げております。「本当のことは何か」っていうこと。それが人生の一番のキーポイントですよということ。その「本当のことは何か」というときに、上に浄土という言葉が付くんです。浄土の「土」というのは、足元の大地ということですか。土ですからね。普通、宗教だと「天」といいます。天国とか、キリスト教でも何でも。ところが、仏教では天といわずに浄土といいます。浄土というのは足元の大地です。共通の大地です。ですから曽我量(そがりょう)深(じん)という先生は、浄土ということを「共通の広場」というふうに理解してもよいのではないか、とおっしゃったことがあるくらいでございます。
浄土真宗というのは私の言葉で翻訳すると、「誰にとっても本当のこと」とていうことです。誰にとっても、時代がどれほど変わろうとも、民族が変わろうと、人間である以上、誰にとっても本当のこととは何なのだろう、ということをいつも大事に考えていく。そういう生活姿勢を浄土真宗と親鸞は名づけたんですよ。単なる宗派の名前ではないんです。
「誰にとっても本当のこと」というのは、色々なことでいえることです。
私も坊さんやっているんですよ、これでね。私は他の職業に就いたことないから、あまり威張ったこと言えないんだけどもね。寺に生まれたからしょうがなしにやってるんだけれども。だけど、私が坊さんやっているって、本当のことは何なのかっていうことです。皆さんも結婚してご夫婦や親子という関係になっています。しかし、夫婦って、本当のことは何ですか。夫婦って何で繋がっているんですか。若い時は性の繋がりがあります。私ぐらいになると御用がないと。そうすると一体夫婦って何で繋がっているんでしょうか。金の切れ目が縁の切れ目、などとも言いますが、それは遊郭かなにかでいう言葉ですね。また親子といっても、一体どこで本当に親子といえるのか。血液型調べて、という話とは違います。戸籍を見て…、それはペーパー上の話です。本当に親子とか、本当に夫婦というのは一体どういうことなのか。もう、あらゆる点でいえることです。
「私は先祖代々浄土真宗の門徒でございまして」といいましても、インチキ門徒ばっかりじゃないかっ、てね。ただ真宗の寺に墓があるっていうだけの、門徒でも何でもありゃしない。法事の時に、お経を読んでくれるお坊さんが真宗のお寺の僧籍をもっているっていうだけの話ですよ。
どう見ても本当のこと、何にもないです。だから何も、こと改めて考なくていいんです。今のこの私のお粗末な生活環境の中において、私にとって本当のこと。その私にとって本当のことっていうのは、私の個人のことですが、個人的なことでは本当のことはみつからないんです。「誰にとっても」という、そこに浄土真宗という言葉のもの凄く大事な意味があるんじゃないかと思わせていただいております。
③へ続く