近田昭夫先生「よきひと法然上人」(1)
2009.04.10
2009年4月10日 春の法要
念仏のあるところ、すなわち我が跡なり。
ご臨終も間近い法然上人に、門弟の一人が、皆を代表してお尋ねをした。ご入滅の後はどこにお墓を作ったらよろしいでしょうか、と。
すると上人は、こう言われた。
私の遺跡はどこにでもある。念仏の声のあるところ、そこに私は生きているのだ。 十方世界、どこでも南無阿弥陀仏の称えれられているところが、そのまま私の一定の住処である。だから別に、立派な墓を作ろうとなど考えることはない。生死の一大事を何とも思わず、ろくに念仏もしないこころで、どんなに無理をして、金をかけて立派な墓を作ろうとも、つまるところ私とは全く違った世界の出来事である。ひとえに念仏申すことを忘れるな。
師の亡き後を想い、遠く祖先を想うにつけても、いつも、わが人生の一大事に目覚め、念仏を自分への呼びかけと聞き開かれる心の耳を開いて欲しい、と。
『蓮如上人行実第50条』意訳。
今日はようこそご参詣でございます。東京の池袋から参りました近田と申します。久しぶりに甲府別院に参らせていただきました。今日は春の法要ということでございます。
大変失礼ですが、普段あまりお寺で仏法なんぞ聞いたことがないけれども、今日は、甲府別院に、ちょっとやって来た、そういう方いらっしゃいましたら、手を挙げていただけますか。ようこそ、おいでいただきました。
浄土真宗は、親鸞聖人が顕かにされました仏教です。
それで、浄土真宗で一番大事なのは、私よく申し上げているんですが、素人感覚ということです。素人感覚というのは、「分かったことにしない」ということです。もっと有り体の言い方をすると、「分かった振りをしない」ということです。我々は、何でも分かったことにして、分かったふりをしております。第一、「自分が何のためにうまれたのか」、「どうなったら自分の人生が満足なのか」答えられますか? そういう大事なことになったら、「幸せになりたいと願って生きております」という抽象的な返事しか出てこないです。本当に私がどうなったら、今度のこの私の人生が満足し完結した、という意味をもつのか、人生で一番大事なこと、本人が一番分からないのです。
こういう問題がございますので、少し露骨な言い方ではありますが、浄土真宗と、浄土真宗以外の仏教とでは、縦と横ほど違う。つまり問題点が違います。そこのところがはっきりしませんから、浄土真宗のお説教は聞いていて難しいというご意見がいっぱい出てきます。ロクな話をする坊主がいない、といわれればそれっきりですが、浄土真宗の法話は難しいといわれる。しかし、私は難しいとは思っていません。難しいとは、「こむずかしい」ということです。浄土真宗は、こむずかしくはありません。非常に単純明快です。ただ、私どもの常識的感覚だと、御歯(おは)に合わないのです。私どもの日常の常識、宗教的感覚で考えると、ちょっと何か分かりにくいんです。つまり、自分の感覚に合わないということが、「浄土真宗のお話は難しいですね」と、こういうことで出てくるんですが。
今日は、『よきひと 法然上人』というテーマでお話をさせていただこうと思いまして甲府へ出て参りました。皆様のところへ用意してまいりました資料の一番上に、今日のテーマ、『よきひと 法然上人』とありますが、法然上人はご存知ですか? 法然上人は親鸞聖人の先生です。法然と親鸞とは師弟関係です。先生と弟子ですから別人格です。別人格ですが、法然と親鸞がされた仕事は一つです。お二人で一つのことを顕かにされた。その仕事、何を明らかにされたかということを、今日のレジュメ、『よきひと 法然上人』の法然上人の下にカッコで書きました。法然上人、正しくは「法然坊源空上人」と申し上げます。
今日、色々とお話をする中で、どうしてこういうお名前が付いたかといういわれもお話できるかとも思いますが、ともかく、世間一般では、法然上人というお名前で通っておりますが、法然坊源空上人と申し上げるのが、正式なお名前です。先程ご一緒にお勤めいたしました、親鸞作の『正信偈(しょうしんげ)』の中でも、「本師源空明仏教」と、本師法然とはいわずに、本師源空といっております。”本師源空、仏教に(・)明らかにして”と。
今日申し上げたいテーマはこのこと一つなんです。法然上人がお出ましになったおかげで、仏教というものが何のためにあるのかということがはっきりしました、ということです。鎌倉時代に法然上人がこの世にお出まし下され、そして法然上人と親鸞聖人が一体となって顕かにして下さったその大事業というのは、仏教とは何のためにあるのか。仏教とは何であるか、ということを非常にはっきりした形で顕かにしてくださった。その当時でも仏教がいかにはっきりとしていなかった、ということが時代背景としてありますから、こういう表現が意味を持ってきます。
では現代はどうかといえば、現代はなおさらです。仏教ということが全然明らかになっていません。
仏教というのは、仏の教えです。仏の教えによって、誰でもが、つまりこの私が仏になる、ということです。この意味が全然分かりません。ですから、仏様の教えをいただいて、この私がホトケになる。ホトケというと、死人になるというのが一般用語として使われており、そういうイメージが付着しておりますから、仏になるということの意味が全然明らかになっていない。それで、今日はその辺のこともご一緒に、少し考えさせていただければと思いまして、法然上人を取り上げたわけです。
ご存知の通り、日本の仏教というのは異国のものです。インドから始まって、シルクロードから中国大陸・朝鮮半島を経由して日本の国に入ってきました。ですから異国のものです。仏教とか仏さんの教えというと、古来より日本に伝統されているような親近感があって違和感がありませんが、外国のものです。舶来品です。ですから日本人の生活の中に、血となり、肉となるまでには時間がかかりました。日本人として一番最初に、仏教を自分の生きる道として、はっきりと態度決定をした人が聖徳太子です。
この別院でも、ご本尊が正面、向かって右側に御廚子(おずし)があります。そこに親鸞聖人の絵姿があります。その右側に柄(え)香炉(ごうろ)を持って立っておられる絵姿が聖徳太子です。浄土真宗では必ず聖徳太子の御絵像を御安置申し上げております。
日本人として最初に仏教を信仰された第一号が聖徳太子です。ところが民衆の中には定着いたしませんでした。ですから、奈良時代・平安時代には、仏教というものは日本の文化の華として開きました。今も興福寺の阿修羅像が上野の国立博物館で展示されておりまして、私も上野公園をよく通りますが、まあ大変な人でございます。それから、皆さんがお参りに京都や奈良へ行きますと、仏像がたくさんありますが、あれはお参りに行くのではなく、見に行くんです。観光資源といって(笑)。拝観料が取れるだけの文化財ですから。お参りに行くのではなく見に行くことを寺の側も承知しておりますから、銭(ぜに)を取っているわけです。今になっても観光資源としてお金が取れるというだけ、まだ命脈を保っております。しかし当時の民衆は全部蚊帳の外です。
日本仏教が日本人の生活の中に定着し土着したのは鎌倉時代です。鎌倉時代に素晴らしい四人のお坊さんが出てきました。それは今日申し上げる「法然」、「親鸞」「道元」「日蓮」。この四人の方が、鎌倉時代の鎌倉新仏教といわれました。本来日本の国に昔からあったものでない、異国のものであったところの仏教が、様々な歩みを経て、日本人の生活の中に定着し土着したのが鎌倉時代である。その鎌倉時代を代表する四人の名僧・高僧が、法然、親鸞、道元、日蓮だったのです。これは非常に大事なことです。 法然親鸞は師弟関係ですから、一つに考えていいかと思います。道元、お名前を聞いたことがありますか? 道元禅師といいます。禅師と申し上げるくらいですから、禅宗のお方です。皆さんご存知の横浜鶴見にある総持寺、大きな寺です。あそこが曹洞宗、俗に言う禅宗の本山です。それから福井県の永平寺、よくお坊さんがご修行なさっているのがテレビで放映されたりいたしますが、あの永平寺を開かれたのが道元禅師です。日蓮上人といえば、南無妙法蓮華経ということで、伝統的な身延山の日蓮宗から創価学会から新興宗教に至るまで、南無妙法蓮華経といったら日蓮上人です。
法然、親鸞はお念仏を明らかにした。道元禅師は、能書き言わずに黙って座れ、といって、只管(しかん)打坐(たざ)。坐禅一本槍なんです。日蓮というのは経の題目を唱えなさい。南無妙法蓮華経と唱えれば御利益があるよ、ということです。
ですから今でも「日本仏教って何か?」と聞いてみると、何も考えたことがないという人でも、「日本仏教? 南無阿弥陀仏と坐禅と南無妙法蓮華経くらいかな」という答えは出てきます。つまり、仏教は色々あるけれど、この三つに収まる。皆さんもそうお思いになられるかと思います。そういうことが定着したのが鎌倉時代です。この四人、少しずれておりますが、大体同じ時代を呼吸されておりました。
お坊さんになるのを出家得度といいますが、日蓮上人は十代になってから、髪を下ろしてお坊さんになられました。法然、親鸞、道元というお三方は、偶然にも出家・得度の年が同じ九歳です。
ところが出家の動機が違うんです。ここが大事でして、道元禅師という方は、京都の久我という貴族の一門にお生まれになられました。非常にいい身分のところに生れました。その久我家が春の盛りに、花見の宴を仁和寺で開きました。今も桜の名所ですが。そこで皆が宴会で楽しんでいるときに、一陣の風が満開の桜を散らした。それを見た御歳九歳の坊ちゃんが、「世の中に確かなものはない、変わらざる真とは何か。これを求めずにはいられない」といって、お坊さんになろうと決心した、といわれております。出来過ぎ(笑)って。普通では考えられない素晴らしい宗教的間感覚のお方だということが分かります。そして、中国まで行かれてご修行なさって、その後に福井の永平寺をお開きになられた、という禅宗の開祖です。坐禅ということを中心に、坐禅の修行をすることによって、直観の悟りを得ていくことが仏道である、ということを、身をもって実践されたのが道元禅師でした。
ところが、法然と親鸞は、そういう出家の動機とは違います。法然と親鸞は似ています。御歳(おんとし)九つのときに、事情は違いますが、家庭崩壊が動機となりました。そこで、しょうことなしにお坊さんになった。法然、親鸞は、(道元禅師のような)立派な志を立てて、というのとは違うんです。御歳九つというんですから、今で言えば小学校何年生でしょうか? そういう時に一家が散りじりバラバラになって心ならずも出家された、というのが法然・親鸞というお二方のスタートだと私は思います。
②へ続く