• Home
  • 浄土真宗 念仏の教え
  • 光澤寺について
  • 行事のご案内
  • アクセス・お問合せ

伝道掲示板

正信偈に学ぶ (7)

2009.03.24

2009年3月24日 春季彼岸会

 

 

法蔵菩薩の因位の時 世自在王仏の所にましまして
諸仏浄土の因 国土人天の善悪を覩見して
無上殊勝の願を建立し 希有の大弘誓を超発せり
五劫これを思惟して摂受す 重ねて誓うらくは妙声十方に聞こえんと
 

宗祖親鸞聖人の七百五十回御遠忌をあと二年後に控えまして、親鸞聖人がお書きになられ、なおかつ私どもがずっとお勤めをするということで親しんでおります『正信偈』を皆さん方と一緒に戴いていきたい、ということで回を重ねてまいりました。なかなか気になることが多く、なかなか前に進みませんで、申し訳なく思っております。
何回もお話しておりますが、ここの部分は法蔵菩薩の物語といわれているところです。お釈迦様が説法なされたものが経として残っている中で、無量寿ということについて仏説きたまう『仏説無量寿経』という経典、これは浄土真宗東西を問わず、一番大事な説法だということで大事にしております。その中に説かれている法蔵菩薩の物語です。
 

あらすじを振返りますと、生としいけるものが救われていく道を真剣に求められた法蔵という方がおられて、その方が世自在王というお名前の仏さまとお会いになられて、願いを誓いを立てられた。どんな人も救われる道はないか。そしてそれが成就した。そして、南無阿弥陀仏という名前になって、その名前を称えるものは必ず拯(すく)い取らずにはおかない、という大きな願いをたてられて仏さまになられた。
これがこの法蔵菩薩の物語の大体の意味でございます。
 

その法蔵という菩薩が因位の時、つまりまだお悟りを開かれる前に願いを起こした、何でも自由になるという名前を持った世自在王仏にお会いになられて、諸々の仏さまがどのようにして浄土にお生まれになられたのかをつぶさにご覧になられて、そして、国土人天の善悪、我々が生きている中で、何が善であり何が悪であるのかを、そしてそれを妨げているものは何であるのかも覩見して。
善悪と言いますと、人間は色々なものを持っております。人間悪いことばかり考えているのではなく、たまにはよい心も起こします。しかし面倒なものを持っている。その良い事をした時に誰かに認めてもらいたい、褒めてもらいたい、できたらお礼が欲しいという心が人間にはある、ということを昔 聞いたことがあります。それを我執と言いますが。これを悪といいます。
もっと言いますと、仏教では十悪ということを言います。十の悪。常識・一般に一番悪いことは何かといえば、人を殺すことだといいます。しかし仏教でいう順番は違いまして、殺生(せっしょう)、偸盜(ちゅうとう)、邪婬(じゃいん)と始まりまして、最後に貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)愚痴(ぐち)となります。殺生は一番軽い罪になります。十悪の全部を話す時間がありませんから、簡単に触れておきますが、何が人間にとって本当に良いことであり、悪いことであるのか、ということが、国土人天の善悪を覩見して、ということです。
そして、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり、と続きます。無上殊勝ですから、殊更勝れ、これ以上無い願いを立てられて、全く稀な誓いを発こされた、と書かれております。殊更勝れ稀にしかない願いというのは、世間には色々な誓いがあり願いがありますが、普通の願い・誓いというのは、志を起こしたものを何とか助けようというものであります。しかし親鸞聖人・法然上人が見出だされた教えといいますのは、当時の言葉でいう修行者や得を重ねて志を起こした人達だけが救われるということでいいのだろうか。そうではなく、そのようなことを考えたこともなく生きることで精一杯である人々、人の物を盗んだり人殺しをしたりしなければ生きていくことが出来ない人々、このような人達が救われていくのか。きれいな心、道を求めていこうという心が全く起こってこない人々を救わずにはおれないという願い、これが無上殊勝の願、希有の大弘誓といわれる中に込められている意味だ、ということを聞きました。そこで問題なるのは、道を求めたりきれいな心を起こせないのは誰なのか、ということです。これが自分のこととして受け取れるか否か、というところが大事なところですが。このような願いであるから、無上殊勝の願であり、希有の大弘誓であるといわれます。
そして、五劫これを思惟して摂受す 重ねて誓うらくは妙声十方に聞こえんと、と続きます。永い時間を表すのに五劫と。色々な説がありますが、一辺が160km四方の岩があり、そこを天女が百年もしくは千年に一回通りかかる。通りかかって、天女の羽衣が岩を掠った時に岩が少し減る。そして、岩が全部磨り減った、と言う時間の長さを一劫というのだそうです。時間の長さを表しておりますが、それだけでなく、それだけ奥が深いということも同時に表してるといわれております。摂受、選び取ったということです。
そして重ねて誓うといわれます。その中でも特に、親鸞聖人のお言葉でいえば煩惱具足の凡夫に何が救いの手立てとなるのかということを、そのこと一つを考え抜かれて、妙声、これはお念仏、南無阿弥陀仏のことですが、その御名が十方、私たちの所まで届くようにとお誓いになられました。
 

過日、東京の真宗会館で開催されております聖典学習会での出来事です。講義終了後、質疑の時間に「法蔵菩薩の物語を何回も聞いておりましても、法蔵菩薩のお話と、私の今の生活がどういう関係があるのでしょうか。私には分からないので教えてください。」というような意味の質問をされました。
そうしましたら池田勇諦先生が、「回向というのは如来が向こうにましまさぬこと、回心というのはこちらに自分がいないこと」、「親鸞聖人の仰る仏道というのは自覚道ですから…」と仰いました。更に付け加えて「公案のようなものですから、皆さんでゆっくりお考え下さい。」と、これがお答えでした。
公案、浄土真宗ではいたしませんが、禅宗ではよくあります。悩まなくてはいけないようなことを師匠が弟子に出すことです。有名な、笑い話のようなことですが、「牛肉を使って精進料理を作りなさい」と師匠が言います。そうすると弟子が必死になって考えます。要は自分で悩む、ということです。悩むのが大事なんです。
池田先生が仰りたかったのは、法蔵菩薩と今の私どもの生活との関係、答えを聞くのではなく自分で悩みなさい、と。ヒントとなるかどうか分かりませんが、少し触れておきましょうか、ということで「仏道というのは自覚道である」と言われたのでしょう。自覚道というのは、自ら目覚める、ということです。向こうに如来がましまさぬ、私たちが拝む向こう側に如来がいない、ということです。そして、拝むこちら側に自分がいない、ということ。
 

私もここで法蔵菩薩のお話をさせていただいておりましたから、この方の質問で簡単に答えをいただけると思っておりましたので、悩みました。答えが見つかったわけではございませんが、その公案を考えておりまして、一つこういうことかと思いました。 

今から七十年ほど前になりますか、曽我量深先生の還暦の講演会において、「親鸞の仏教史観」という講題でお話になられました。本にもなっております。
仏教というのは今から2500年ほど前にインドの釈迦族の中にお生まれになったゴータマ・シッタルダという方が(後のお釈迦様)が世の無常を感じて、自ら王子の位を捨てて、妻子も身分も全部捨てて出家なされ、6年間の修行をされてお悟りを開かれた。そのお悟りの内容が仏教の教えであります。そして弟子が増えていきまして、釈迦滅後、小乗・大乗と分かれていきました。小乗の方は、自分で悟りを開こうということで、必ず出家いたします。大乗の方は、お釈迦様が悟られた内容のほうを重要だとしています。大乗、大きな乗り物ですから、私一人ではなく、皆一緒に救われていかなくては、と考えます。その流れが中国を通りまして日本に入ってきます。そしてその歴史の中で、中国で色々な方がお生まれになり、日本にきて色々な宗派が開かれ、その中で親鸞聖人が法然上人の教えを受けて浄土真宗を開かれ、お念仏の教えを開かれた。と仏教学者は一般的に言うけれど、そんなことはどうでもいいことだ、間違ったことだと曽我量深先生は仰ります。
仏教というのはお釈迦さまに始まったのではないといわれます。仏教はもっとずっと昔からあった。仏の本願が先にあった。歎異抄に出てまいりますが、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず」(第2章)と、弥陀の本願が最初であったと。たまたま気がついた人が、本願の中から、願いの中から姿形をとってこの世の中にお生まれになられたのがお釈迦さまであった、ということだと。本願の歴史というのは、連綿としてあるのだと。
これを読みましたときに、これかなと思いました。私たちは歴史を積み重ねてここまで来ていると思っておりますが、曾我先生のおっしゃっていることはこれとは違うということです。
「回向というのは如来が向こうにましまさぬこと、回心というのはこちらに自分がいないこと」ということが法蔵菩薩の物語を考える手がかりだ、と池田先生が言われた意味は、私たちが、お釈迦さまがお悟りになられて、それを七高僧がずっとお伝えくださって、そして親鸞聖人がおいでになられて、教えに遇って…、それは間違いないですが、そう伝わってきたのは何かといえば、お釈迦さまを生み出したのが本願であり、私たちをここに生み出してきている本願である、と。つまり、法蔵菩薩というのは、昔々の物語ではなく、今も現にここにはたらいておられる、はたらいている、そういう願いを法蔵菩薩とあらわしてくださっているのではないかと。今も私のところにはたらいてくださり、願っておってくださる。そのように受け取ったらどうかと、今は考えております。
 

ですから、「如来が向こうにましまさぬこと」というのは、私たちの感覚では、どうしても如来を向こうにおいてしまいますが、向こうにおられなければ何処におられるかといいますと、ここに居られる、ということでしょうか。如来、一如真実ですから、真実が向こうからこちらへ来ているのです。如からこちらへ、今も来ている。2500年前から歴史が流れておりますが、そうではなくて、今、現に、ここに、はたらいている、願われている、ということを一生懸命知らせんがために、仏説無量寿経というお経が説かれ、親鸞聖人はそこを仰りたいから、正信偈の一番最初にこの物語を出してこられた意味があります。今、ここに、法蔵菩薩の願いがはたらいていると。
ですからこちらに自分がいない、と。自分といいますのは、我執でいっぱいの自分です。自分のことしか考えられない私たち、自分のものの考え方しか出来ないようになっています。いま私がどんな顔をしているか、自分では分かりません。
たまたまでしたが、質問なされた方がご縁となりまして、ここまで公案いたしました。本当にありがたいことです。

« 一覧へ戻る

^@Jh@{莛

^@Jh

^@

ǂ݂ܐȁ@TOMOԂ

y^@hbgCtH

y[W擪