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伝道掲示板

正信偈に学ぶ (4)

2008.09.17

2008年9月17日 秋季彼岸会法要

 

 

先般、「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 都見諸佛浄土因 国土人天之善悪」までお話をしようと思っておりましたが、「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」で終わってしまったんです。どうしようかと思っておりまして、いろいろ考えましたが、もっと前の言葉が気になりました。
 

「正信偈」の前に、何で「正信偈」を作ったかが書かれております。「しかれば大聖の真言に帰し、大祖の偈釈に悦して、仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈をつくりていわく」といわれています。ここに三つのことが書いてあります。
「大聖の真言に帰し」大聖とは、お悟りをお開きになったお釈迦様、仏陀です。真言というのはお釈迦様がお説きになられた言葉です。説法です。お釈迦様がお説きになられた説法に帰って、真言とは真実のことば、お釈迦様の説法に帰して。親鸞聖人はここでは、真言とあらわした。仏教の教えとして何が大事なのかということだと思うんです。
 

「大聖の真言に帰し」お釈迦様の説法に帰って、「大祖の偈釈に悦して」お釈迦様の教えをお聞きになった方々、「正信偈」で言えば、後半部分の依釈分に出てきます。龍樹、天親、曇鸞と続く、そういう七高僧の方々の解釈を読ませていただいて、「仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈をつくりていわく」というのが正信偈の前に出てくるんです。ここが大事だと思うんです。仏のご恩が深くて遠い、遠いとは広いという意味でしょうね。「仏恩の深遠なるを信知して」特に恩ですね。信知してとは、本当に知って、心から頷いて、正信念仏偈を作りました。
私なりの解釈で申しますと、たまたま縁あってこの仏教の教え、お悟りを開いたお釈迦様の説法がお経として残っています。そのお経を紐解いて私たちに伝えてくださった方々を親鸞聖人は七高僧と言われておりますが、その方々を通して仏様が仏様になった教えの本当の心に出会わせていただいた。仏のご恩の深くて広いことを気づかせていただいた。そのことを本当に喜んで、「正信念仏偈」を作りましたという意味です。出会わせていただいた我が師によって、仏教の本当の教え、お言葉に出会わせていただいて、仏のご恩の深くて広いことに気がつかせていただいた。それを「正信念仏偈」といううたに託させていただきましたという意味だと思うんです。
 

それが最初に書いてあるんですね。その中でも、大事な言葉は仏恩ですよね。
恩という字ですが、仏教では四恩(しおん)という四つの恩という考え方があります。また、恩という漢字を半分に割ってみると、因と心という字です。因は原因の因、因るという意味ですよね。心はこころ、真ん中、中心という意味です。これが一つになって恩。因るべきこころ、因るべき中心が恩なんだと思います。恩というと、普通は親の恩とか言いますが、この親の恩というのもなかなか分からないですね。本当には、なかなか分からないですよ。どうですかね。よく世間的に言われることは、「亡くなって初めて分かる親の恩」というような言葉があったかと思うんですが。「されとてお墓に布団も掛けられず」でしたでしょうか。育ててもらったとか、学校に行かせてもらったとかだったら分かります。恩というのは、そういうものではないんだと思うんですよね。それだったら、親が亡くならなくても分かります。恩というのは、私にかけられた願いというのか思いというのを、ずっと知らずに過ごしてきた。けれども本当は私のことを、実は涙を流すように大きな願いをもちながら見ていてくれたという。恩ということの内実は、そういうことではかいかと思うんです。どうでしょうか。都合がいいときには、親の恩と言います。都合が悪くなるとそうは、言わなくなる。
基本的に、われわれには平等というものは成り立たないんだと思うんです。親や家など、境遇が同じなことは有り得ない。仏さまからみて平等ということですね。なんで私だけこんな思いをしなければならないんだろう、と思うのが普通ですね。それがいいという訳ではないんです。そういう思いがどこから出てくるかということを教えてもらわなくてはいけないですよね。
 

マザー・テレサという有名な方がいらっしゃいました。ある本で読んだのですが、病院も行けず、明日亡くなるかどうかというような方を治療したり、面倒をみたりしていました。晩年は治療はしませんで、今日亡くなるか明日亡くなるかという人たちに言葉をかけることをした。「あなたは、父や母に見放され、世間からもつま弾きにされて、最後はここへやってきた。そして、いま亡くなろうとしている。あなたは父母や世間を恨んでいるかもしれないけれど、でも神様だけはあなたを見放さない。神様はあなたのことを愛しくおもっているよ。私もそう思っている。」ということを伝え、最後を看取るそうです。亡くなっていく人を、恨みつらみで亡くなっていくのではなく、生まれてきたということは、実は神様に望まれてこの世に生まれてきたんだ。神様は、今まであなたのことを大事にしてきたんだよ、ということを伝えるそうです。それが、マザー・テレサの仕事だとその本に書いてありました。多分、仏の恩というのも、そういう事ではないかなという気がしています。だからと言って、親や周りの方の恩を感じなくてもいいという事ではありません。ただ申し上げたいのは、私たちが頭で有り難いなとか、お世話になったなと思うのは、もらった封筒に10万円入っていたら有り難いと思うのであって、何もくれない親戚には有り難いと思わないのと一緒であって、どうしても自分の思いで有り難い有り難くないというのを決めている。それがいけないと言うのではなく、実はそれを超えて仏様の恩とういうものがあるということを親鸞聖人は言いたかったんじゃないでしょうか。人間の恩よりももっと深いものがあるんだと。それが、「仏恩の深遠なるを信知して」という言葉じゃないかなと思います。では、もっとそれをこえて、私たちを生かしてくださる。
 

今日のご和讃で言いますと、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」。十方というのは、東西南北とその間を入れて八方です。あと二つは上と下です。十方です。全てです。十方微塵ですから。細かく塵のようなものや、本当に苦しい生活をしている人も捨てることがない。「念仏の衆生をみそなはし」です。お念仏を称える衆生を哀れに大切に思って。「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」摂取して捨てないから阿弥陀と言うんだ。すごい和讃だと思いますね。仏の恩というのはそれなんだと。そのことを良くわかって、だからこそ『正信念仏偈』をつくるんだと。『正信念仏偈』とは、念仏を正信するうたという意味です。「なんまんだぶ」と称える念仏とは、どういう意味があるのか、どいういわれがあるのか、どういう気持ちで称えるものなんだろうかということを、正信のなかに託したい。それを仏恩ということ、私たちを摂取して捨てないということは、南無阿弥陀仏ということのなかに込められた願いなんですよね。そのことを顕したい。そのことが、「正信念仏偈をつくりていわく」ということです。
 

「正信偈」に入る前に誓っておられる、非常に大事なことだと思いまして、特に仏恩ということを申し上げました。親鸞聖人はそのことをいただいて、「親鸞一人がためなり」とおっしゃった。つまり、仏様が南無阿弥陀仏という言葉にまでなって私たちに伝わってくださったということには、実はどんなものも救わずにおかないという願いがかかっておったんだ。それが仏の恩なんだと。なかなかそれをいただけないのですが、「正信偈」を拝読させていただきながら、皆様方と一緒に毎回たずねさせていただければと思います。

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