法義相続
2009.05.28
2009年5月28日 御命日のつどい
本日は、親鸞聖人のご命日のつどいですが、ご命日とは「命の日」と書きます。各ご家庭には沢山のご命日があると思います。父母、祖父母と数えていくとほんとうに沢山のご命日がありますが、先祖を辿っていくと、どの人が初めだということまでは分らない。 では、初めは誰であったのか。阿弥陀さまと考えてみてください。それからお釈迦さまが誕生し、親鸞聖人、皆さまのご先祖、そして今の私たちに続いている。このことが何を意味しているかというと、このいのちと共に教えを代々伝えてくれた流れということでしょう。
「ご家族のご命日にお参りしていますか」という看板が大阪の本願寺派の別院に出ているそうです。「ご命日をきっかけに故人を偲びつつ仏法を聴聞し、私にまで伝えられてきたこの教えを通し、いのちの大切さを確認することが大切なことです。」ということが、そこにかかれている主旨であると考えます。実家が遠くてお参り出来ない人は、どうぞ本堂へお参りいただき、ご命日を縁として、いのちの大切さを考えて欲しいと。
「いのち」ということを、政治という側面で見てまいりますと、日本の二大政党の党首討論では、自殺問題があげられましたが、そこでは「不景気だからだ」ということが原因であると位置付け、いのちの大切さをどう考えるか、ということにはなっていかない。 また、殺人事件の裁判でも同じです。被害者の気持ちもないがしろにするわけにはいきませんが、「加害者を死刑にしてほしい」という報復感情ばかりが目につき、やはりいのちの大切さ、を考えることにはつながっていきません。
川端康成は、「親鸞聖人は、愚(おろか)ということを発見した人である。」と言っています。自分は愚かであるということをスタートとして、人生を歩むということでしょう。この愚かである私が、悲しみを縁として故人の死を受けとめ、いのちの尊さを感じとったところに、はじめて目の前の事実を引き受けて悲しみを乗り越えてゆける生き方が示されてくるのでしょう。 いのちの尊さが叫ばれている今日、共に仏法聴聞することを通していのちの大切さをあらためて考え、法義相続をお願いしたいと思います。