「真宗の教えと習俗」―生活現場での矛盾を通して―
2009.08.28
2009年8月28日 御命日のつどい
お他宗の仏事に「お施餓鬼」というものがあります。餓鬼に食べ物を施すというのがその内容です。亡くなった母親へお供えをし、僧侶へ供養をする。これは、お盆の時期にみられる風習ですね。かえってくるご先祖を8月の13から16日の間だけお迎えする。この時期だけではご先祖に失礼ではないかとも思うのですが、何の疑問もなくおこなっていると思います。
真宗における先祖供養については、『歎異抄』第5章にある「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」があげられます。つまり、親鸞聖人は先祖供養のために念仏したことはないと言うのです。「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」と続いていきます。
一般的な供養としての特徴はお墓参りに見て取れますね。親兄弟のお墓に参って花や線香をあげて、「供養した」と言っています。それは、自分が安心するためにやっているのではないでしょうか。
この、親鸞聖人の教えと一般的な供養との違いを整理できたにせよ、平常行っている墓前での読経の意義を問わずにはおれません。それは、読経が「教えの中身を聞く機会となっているのか」という葛藤があるからです。そのような矛盾を抱えながらも生活のためとして読経をし、お布施を頂戴している現状です。それは、教えと生活にはさまれながら、長いものに巻かれている僧侶(私)の姿です。
その意味で言うと、通夜・葬儀や法事において法話の機会があることが唯一の光明に思います。
いわゆる民族宗教といわれるものは、他にも清め塩や火葬場への行き帰りの道をかえるなど沢山ございますが、それぞれの矛盾に気付くことが大切だと思います。
法名や戒名の意義が薄れていることも気になります。法名は存命中にいただいて欲しいものです。教えを聞く身として、新たな生活をはじめるのが帰敬式(ききょうしき)です。私も多くの矛盾を抱えながら生きていますが、教えの言葉にたずねながら生活してまいりたいと思います。