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伝道掲示板

さるべき業縁のもよおせば

2008.11.28

2008年11月28日 御命日のつどい

 
 

未曾有の混沌とした時代にあって、たとえば、介護の現実は大変である。
老人が老人を看る「老々介護」や認知症の人が認知症の人を介護する「認々介護」。
独身の子供のシングル介護も増えている。
そのような中、86歳の母親を54歳の子供が殺す事件がありました。

痴呆症の母親を息子は会社に勤めながら一生懸命一人で介護をしていたが、やがて痴呆が進み、会社を辞めざるを得なくなった。収入もなくなり、母親の年金も底を尽き、行き詰って母を殺してしまう。後を追って自分も死のうとしたが、死に切れなかった。
とても優しい息子であったが。と報じられました。
 

このような状態を、歎異抄13章では、
「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもするべし」と。
でもこれは、この息子さんだけの問題ではなく、私たちの本当の姿ではないか。
縁次第ではどんなこともしてしまう可能性を私たちはもっている。この私が人を殺してしまう可能性もあります。
また、仏教一般的・聖道門的には、前世過去世の報いや、「善因善果、悪因苦果」といわれ、六道輪廻、迷いの世界で生死(しょうじ)を繰り返すといいます。これを超えるというときに、聖道門では竪(たて)に超えると。修行等により一歩ずつ順序立て段階を踏んで超えていくあり方です。これはこのまま運命論や宿命論です。
 

それに対して、真宗ではこの考え方を否定します。この輪回を断ち切って淨土に生まれると。断ち切るのが阿弥陀如来の本願力の力です。
親鸞聖人は、こういった運命・宿命、努力の結果等の因果を否定して、業ということを、機の深信・法の深信と「二種深信」という言葉で言っておられます。善導大師のお言葉の中に、自身はこれ罪悪生死の凡夫。曠劫より巳来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず」と。私は助かりようのない罪悪深重の凡夫であることを深く信ずべしと。
しかも、その言葉の前には「決定して」とあります。阿弥陀の本願力に乗じて、阿弥陀の本願は必ず衆生を救うと信じなさい、と。
信じるのは難しいですね。でもここに頭が下がって初めて法が聞こえます。助かりようのない凡夫・悪人は、誰のことではない、私一人の姿である。その信心を戴けば浄土真宗であります。冒頭の「去るべき‥」は、この機の深信の部分です。
そして、法の深信はというと、歎異抄の後序の部分にあります。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と。
これほどの業をもっている身をたすける本願のかたじけなさ。機・法は離れない。これを離してしまうと、決定論です。

 

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