「仏説について」-なぜ?ということを通して-
2009.07.28
2009年7月28日御命日のつどい
真宗の教えでは「ものを覚えてはいけない」ということを言います。それは「なぜ?」ということが無くなるということです。子どもはいつでも「なぜ?」「どうして?」と、常に新鮮で、いわゆる素人感覚とでもいうものを持ち合わせています。大人になって年をとってくると、物事が分かったつもりになって「なぜ?」という疑問が無くなってきますね。
我々浄土真宗のご本尊は、ご存知の通り「阿弥陀如来」です。しかし、それは何故でしょうか。ただ安置してあるだけでは意味をなさないわけです。
そのことについて、何かポイントとなることが「仏説」ということにあると思います。真宗の正依の経典として、浄土三部経と言われているものがあります。『仏説無量寿経』(大経)・『仏説観無量寿経』(観経)・『仏説阿弥陀経』(小経)の三経です。どれもタイトルに「仏説」と付いています。このうち、『仏説阿弥陀経』は、我々にとっても馴染みの深いお経で、中国のお寺では今でもお朝事で勤められているそうです。
お経は、お釈迦さまの説法の聞き書きです。「随(対)機説法」といいまして、機:人間の苦悩に、隋:よりそって説かれた、対:こたえて説かれたところの、さとりの世界です。釈尊がそのお経を説く理由となるきっかけが有るわけです。
しかし、この『仏説阿弥陀経』は無問自説経と言われ、弟子からの質問がないのに釈尊が自ら説きはじめたものです。釈尊は、自らの死が近いことを知り、伝えずにはおれないことを説いたのだと言われております。それは、釈尊の出世本懐と言われる「阿弥陀の本願」を説いたもので、その阿弥陀仏は今現にましまして説法をなさっている。過去でもなく、未来でもなく、今現にここに(今現在説法)と。
このことは、釈尊亡き後のこの末法の時代を生きる私たちにとって、何を語りかけているのでしょうか。行証廃れゆくなか、「なぜ?」という疑問も忘れているような私に、(今ここにおいて)真に生きるとはどういうことか、その意味を問わずにはおれないことを思い出させてくれるのではないでしょうか。