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伝道掲示板

正信偈に学ぶ(2)

2009.08.19

2009年8月19日盂蘭盆会法要

 

先ほど法蔵菩薩の物語を述べましたが、経典の中に、法蔵比丘が世自在王仏の所(みもと)に行きまして、何とか、一人も漏らさずに拯(すく)い取られる道を建てたいとおっしゃった時に、「ハイハイ分かりました」とは世自在王仏はおっしゃられませんでした。先ず何を言われるか、といいますと、有名な言葉でこうおっしゃられます。

「汝自当知(にょじとうち)」、汝(なんじ)自ら、当(まさ)に知るべし、と仰います。これは有名な言葉でございまして、そこまで自分が思うなら、自分で探したらよいではないかと、世自在王仏が法蔵比丘に言います。そう言われた法蔵比丘は、世自在王仏に「斯義弘深(しぎぐじん) 非我境界(ひがきょうがい)、この義弘深にして我が境界にあらず」と返します。

法蔵菩薩が切り返したんですね。「自分で知りなさい」と仰いますが、これは自分の境界(きょうがい)ではありません。自分の力を超えている、ということを申します。

 

02-1

そこまで言うと、今度は、
その時に世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなわち法蔵比丘のために、しかも経を説きて言まわく(真宗聖典14㌻)
この言葉を聞いて、世自在王仏は、法蔵比丘と名乗った方の、「高明の志願の深広なる」志、願いですね、それが、いかに深く広いものなのか、ということが分かって、そしてお経をお説きになった。
たとえば大海を一人升量(しょうりょう)せんに、劫数(こうしゅ)を経歴して、尚底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。(真宗聖典14㌻)

 

あなた(法蔵比丘)が言ったことは、本当に大事なことだ。しかしながら、あなたの願いは、大きな大きな海の底に眠る宝を一人でもって水を汲み出して、その宝を何とか掘り出そうというくらいに難しいものだ、ということを言います。それだけ難しいけど、いいのか?ということを確認した上で、その世自在王仏が法蔵比丘に教えを説いていくわけです。

それくらい、大きな願いだということです。私の境界にあらず。私というものを超えた、ということです。このことが大事なことです。私どもの考えとか思いというものは、どうしても私を中心にしてしか動きません。どうしても、私というものに縛られていく。その私を超えてくるようなものが、実は仏さまでないか、ということを言おうとしているんです。我が境界にあらず、です。

私が発(お)こした願いだから、私が何とか願いの通りにできるならばいいけれど、そうでない。どんな人もそこに目覚めて生きるということは、そういうものを超えたものなんだ、こういうことを言わんとしていると思います。

 

こういうことで思い起こされることですが、大谷大学教授の延塚知道先生がインドに行かれた時のことを本にお書きになっております。その中で、お釈迦様の御旧跡を訪ねるとともに、どうしても行きたいところがあった。もう亡くなりましたがマザーテレサの僧院。カトリックの病院。そこに一度行きたかった、と。

行きましたら、たまたまマザーテレサは居なかったが、ガイドの人に案内してもらって、そこを見てきた。そこで働いている若いシスターに、マザーテレサはいないのか、どこへ行ったのか、何をしているのか、聞きましたら、正確な言葉ではありませんが、「マザーは夕方、決まった時刻にこちらの方にお見えになります。今日、あるいは明日息を引き取るんではないか、こう思われる重症の患者さんの所へ行き、そして、その人の傍へ座って患者さんに話しかけ、お祈りをされます」と。何を話しかけるというと、「あなたは生まれてから、父親に見放され、母親にも見放され、親戚にも見放され、社会からも冷たくされて、こんな世の中生まれてこなければよかったと恨んでいるかもしれないけれど、そうではありません。あなたは、神様に望まれて生まれてきた子です。と。神様は、あなたのことをいつも愛しています。実は、私もあなたと同じ神様に望まれて生まれてきた子です。今も神様に愛されています。そのことだけは間違いないことです。」というようなことを、今日亡くなるか、明日亡くなるか、分からないような方の所に行って話しかける、という説明をそのシスターから聞いた。と、本で読ましていただきました。

02-2なるほど、そうなんだ、と思いました。カトリックの話ではありますけれども、教えは違いますが、精神的には、私はこの今のような話が、法蔵菩薩の物語の一番わかりやすい話ではないかと思います。

10年・20年前のインド、あるいは発展途上国というのは、ストリートチルドレンといいまして、母親も父親も分からない、学校に行かれない、そういう子供たちが沢山いました。そういう状況で出来ることは一つしかありません。他人の物を盗って生きるしかないんです。発展途上国へ行きましたら間違いなくわかります。私もブラジルに行っておりましたので、ものすごく分かります。徒党を組んでいますから、狙われたら日本人は間違いなくダメですね。本当に上手です。それこそ日常茶飯事ですから警察も捕まえません。でも、そういう子供たちが長生きできるかというと、そうではありません。色々なことで悪くなっていきます。インドも多分そういう状況だったんでしょう。今はインドも経済大国になりつつありますから、わかりませんが。マザーテレサさんがその道に入られたころは、大変ひどい状態だったらしいです。

そういう子供たちに、今日亡くなるか、明日亡くなるか、分からないような子供達にそう言って、そして私も同じよ、というんです。親鸞聖人が正信偈の最初に、「帰命無量壽如来 南無不可思議光」、こうお書きになって、そしてお経、仏説無量寿経の中で何が一番、何を書かなければいけないのか、といったときに、法蔵菩薩の物語をお書きになった。

親鸞聖人のお気持ちの1/10、1/100も分かっていないかもしれませんが、実はこれ、物語のようだけれども決して物語ではない。こういうものが私たちのいのち中にずーっと流れてきている。気が付かないけれど。どうかそのことに気が付いてもらいたい。一人ひとりのところに願いがかけられている。一人ひとりのところに、それこそ志願がかけられている。そこに目覚めなければ、本当に人間として生まれてきた価値がないではないか。意義がないではないか。こういうことを親鸞聖人は、どうしても仰りたかったのではないでしょうか。

ですから、法蔵菩薩の物語をわざわざ出してこられた。そのように思わざるを得ない。

 

もう少し具体的な話をしますと、私にも皆さんにも、父親があり母親があります。当然、父にも母にもまた、父があり母があります。存命の方もあるかも知れませんし、亡くなった方もあるかと思います。その父親・母親というのは、やはり自分の、いわゆる我が子に色んな願いを託します。だれも、不幸になった方がいい、という人はおりません。何とか一人前に、幸せになって欲しい、という気持ちをずっとかけてこられたと思います。ところがかけられた方は、なかなかそういうことに気が付きません。それこそ、目に見えないんです。目に見えない。感じることができない。それと同じとは申しませんが、やはり自分の父母の願いに似た、というか、願いのもっともっと大きな、自分だけではなくて、生きとし生けるものにかけられた、そういうものが仏さまの願い、本願というものではないかと思います。こういうことをあらわすために、親鸞聖人は法蔵菩薩の物語を書かれたのではないかと、改めて思わされていることでございます。

 

正信偈を拝読しながら、少しでも感じさせていただけるようなご縁になれば、と思いながら、今日もお勤めをさせていただきました。

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