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伝道掲示板

第3回 真城義磨先生のお話

2009.08.06

2009年8月6日暁天講座

 

そこでわかってきたこと、教えられたことですが、
過疎地というけれど、過疎ということは、人間が減ることではなかった。過疎というのは、コミュニケーションが薄くなっていくことでした。人数が減っていくことが怖いことではない。人数が減っていくことに伴い、言葉の掛け合い、気の配りあい、心の配りあいがきちんとできていれば、人数が減っていくことが怖いことではありません。むしろ、人数が減っていくことに伴って、言葉やこころのあいさつのやり取りというものが疎遠になっていく。ですから、都会にどれだけの人がいても、コミュニケーションの過疎が本当の過疎だと教えられました。
 

あるいは、出来ないことを確かめていくとわかることがあります。それは、出来るだけの人はどこにもいない、ということです。どの人も、一人の例外もなく、出来ることと出来ないことを両方併せ持っている者同士だった、ということを全員で再確認することになります。ということは、出来ないことがあるということが恥ずかしいことでもなんでもない。誰でもみんな出来ること出来ないこと、得意なこと、苦手なこと、恥ずかしいことと自慢できることを両方併せ持っている者同士。
そういうことで、実は平等であった。私自身も、平等ということも考え間違いしていた、と思わされました。皆が努力し、知恵を出し合って頑張って、譲り合って、ルールを決めて、平等の社会を創りあげなければならないと思っておりました。全く違っておりました。我々皆完全に平等に生まれ、平等に生きている。にもかかわらず、私の都合、願いや思い、計らい、理由…。そういうもので、我々が差別の世界をつくっていた。
 

改めて、何がどう平等なのか。出来ることと出来ないことを併せ持っている者同士、もっと言えば、人間というものは、弱い者同士で平等だったということです。ということは、弱くていい。出来ないことを抱えていていいんだ。ということです。年をとりますと、出来ることが減って、出来ないことが増えていきます。悩むようなことではないんですね。赤ん坊はできることは何もない。してもらうばっかりです。それでもいいんだ、ということです。
だからといって、出来ないことについては、あまり悩まずに、気楽に頼みましょう、となっても、これ、勇気がいりますね。自分はそれができない、ということを自分で認めて、それを開くわけですから。自分の弱みはあまり見せたくない、苦手なことは知られたくない。何故か。そういうもの抱えている者は、価値が低いとみる目があるからです。
だけど、弱い者同士、というところへ、いっぺん立ちなおしてみよう。したら、できないことは頼んでやってもらい、一緒にやり、その代り、出来ることは惜しまずやりましょう、ということになってくる。
 

こういう形で、コミュニケーションが図られていきます。おしゃべりしたり、自然発生的に。すると豊かになる、というか、変わってきます。貸し借りゼロだったものが、してもらった、から、してあげなくては、となってきます。
 

これを、私が勝手に言っているだけですが、お世話残高と。お世話残高というものがあるのではないか。貯金通帳に残高があるように、残高をおろしながら生きていけばいいんです。一生涯生きてきた間に、今までたくさんお世話してきた。お世話したのと、してもらったのを相殺すると、きっと、どの方も、してあげた方の残高がたくさん残っているはずです。その残高がたくさん残っているから、その残高をおろして生きていけばいい。何の心配もない。また、こっちにしてもらったことを、あっちに返しても構わない。もっと言えば、いいことさせてあげた、くらいのことでもいいのではないか。
このようなことで、色々とはじまっていきました。平成4・5年から始めましたので、17・8年経ちまして、当時の中心メンバーが、お亡くなりになられたり、施設に入られたりして、残念ながら、グループだんだんは崩壊状態になってしまいました。それほどまで高齢化してしまいました
④へ続く

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