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伝道掲示板

第5回 真城義磨先生のお話

2009.08.06

2009年8月6日暁天講座

 

大人がみんなこのような考え方で子供が育つとどうなるか、という問題です。子供たちもいい人材でなければならないと、言葉を覚える前から学習してしまう。そうすると、目の前の大人からいい人材とみられなければならないと思いながら子供が育つ。そうなるとどういうことが起こるかというと、目の前に、身近にいる大人は、私に何を期待し何を求めているのか、ということを先回りして察知し、そのように振舞ったら、「あんたいい子だね」と言ってもらえる。 こういうことが、子供たちをどれほど疲れさせているか、どれほど傷つけているか、ということがあります。
 

例えば、法事が勤まる。親戚が集まり、近所の人も集まる。両親もおります。そこの家に小学校入学前の女の子がいたとします。その子は大変に気の小さい臆病な子なんです。びくびくする、人の目をものすごく気にする子です。ところがたまたまその日は、どういうわけか 久しぶりに来た叔母ちゃんがその子を見つけて、「○○ちゃんおおきくなったね。」と声をかけます。みんながいるところで声をかける。
「叔母ちゃん、あなたのとってもいいところを感じているのよ。あなたのそのおおらかなところが、おばちゃんは大好き。そこがあなたの一番いいところだから、おおらかさを失わないでこれからも大きくなってね。おばちゃん、応援しているからね。」と。これ、何の悪意も無いです。善意そのもので、何とか私としてその子を褒めたい、評価したい、称えたい、という気持ちでおばちゃんが言っております。
ですが、もともと気の小さい、周りを気にするビクビクする子です。それ以来、ずっと、おおらかという服を着続けていくわけです。そこに誰か一人でも大人がいたら、おおらかに振舞う。自分の出来る限りでおおらかを振舞おうとします。思春期入る前に潰れてしまいます。二進も三進も体が動かなくなってしまう。そのおばちゃん、何の悪意も無いし、傷つけるつもりは、これっぽっちもありません。むしろ、喜ばせようとして言っている。だけど、子供たちの反応はそういう反応をしてしまいます。考えて、というのではなく、無意識に振舞ってしまいます。
 

そうすると、お母さんはこういう子が好きだ、ということを子供は分かっていますから、お母さんの前ではこのように対応する。あの先生はこういう性格の子供が好きだから、あの先生の前では、出来るだけそのように振舞う、使い分けるような形になる。
このような、大人から見てよい子というのは、自分のことが好きなんだろうか、というと、嫌いになっていくんです。何故かというと、自分自身を生きていないからです。納得の出来る生き方を全然していません。考える前から、あの先生はハキハキした子が好き、となると、パッと手を挙げてハキハキ答えよう、というようなものです。そしてクタクタになっていきます。何かの拍子に気が付いて、また私は自分で思ってもないことを言ったり、ズルばかりしている。本当は自分自身生きていきたいのに、きっかけがないし、どうしたものか。そうこう考えているうちに、もう学校に行けなくなる、部屋から出られなくなっていく。体に色々な症状が出てくる。そのような子が日本中に本当に沢山おります。
親は、我が子を、それこそいい人材に育てて、そして社会でバリバリ活躍して、いい収入が得られるように育てなくてはなりませんから、親は親なりに言っていく。それはそれで、いい部分もあります。しかし爺さん婆さんは、本体価値のところに立って、人材である前に人間だ。お前がよいことをしようが、悪いことをしようが、0点取ろうが100点取ろうが、私から見れば、かわいい、大事な孫以外の何物でもない、という、親とは違う発信をして欲しいわけです。
 

例えばですが、ヨチヨチ歩きの子供が、よそ見して机にぶつかる場面があったとします。親であれば、「しっかり前を向いて歩かなければダメよ。」と言って叱る。これでいいんです。しかし婆ちゃんは違う。お婆さんは孫を絶対に叱らないですよね。誰を叱るかというと、その机を叱ります。「誰かがこんなところに机を置いて。あんたは悪くない、この机が悪いんだ。婆ちゃんが怒ってあげる。」という具合です。小さい子から見ても、自分のミスで転んだことは分かっています。だけど、その自分のミスを一言も責めずに、理不尽にも机を怒っているお婆ちゃんは、子どもにとって、とっても嬉しいものです。お婆ちゃん、私のこと守ってくれている。という気持ちになってくる。
 

家の中にそういうものがあると随分と違ってきますが、現代は、夫婦と子供だけというような合理的家族ばかりです。私たちのように学校に勤める立場から、経験的に言えば、合理的家族というものは一番危ない家族です。
虐待も、非常に偏った子育ても、そういうところでおこります。昔のように大家族のところでは、そのようなことがなくて、孫はかわいいんです。それは、家の中で色々な価値観があるからです。
ですから保護者の方にも、お父さんとお母さんは意見が違う方がいい、と言っております。父母の意見が一緒だと、そこの家庭の中に意見が一つしかないことになりますから。価値観が一つしかありません。そうなると、子どもは何も考えません。お父さんの言うことと、お母さんの言うこと、どっちがいいのか、と思うのが大事なんです。
夫婦だけの場合、ここで気まずくなると、後やりにくいですね。すぐ近所に、お父さんの兄弟が住んでいたりするのが理想的です。お父さんと叔父ちゃんとは、意見が違います。そうすると子どもは、そのことに対して、お父さんが良いということと叔父さんが良いということを考えます。こういうことがとっても大事です。
 

今の時代は、子供たちが、考えないように、考えないように育ててしまっています。工夫しなくてもいいように、工夫しなくてもいいように。
朝から晩まで一言も口を聞かなくても、生きていくのに何にも困りません。お店に行って物を買うときも、電車やバスに乗るときも、何もしゃべらなくてもいい。対人関係の煩わしさを一つも感じずに生きていける世の中を良かれと思ってそうしてきた。誰が良かれと思ったのかというと、人間の知恵です。私の都合というのが中心です。
そうすると、人間も材料として見る、ということになる。私の都合に適う材料かどうかで、いい人・悪い人、子どもに対しても、いい子、悪い子、と。
 

⑥へ続く

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